「マイソール王国」の版間の差分

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しかし、同年イギリスがフランスからケーララの都市[[マーヒ]]を奪い、軍事的にも重要だったこの地が奪われたことで、南インドにおけるイギリスの脅威が増した。ハイダル・アリーはこの脅威に対して、フランス、マラーター同盟、ニザーム王国と同盟し、[[1780年]][[7月2日]]にイギリスに対して宣戦布告した(第2次マイソール戦争)。同月ハイダル・アリーはカルナータカ地方政権の領土に80000~100000の大軍を送り、同年[[11月3日]]その首都アルコットを占領し、マドラス近くまで攻めたが、攻め落とすことはできなかった。第2次マイソール戦争中、[[1782年]][[12月6日]]にハイダル・アリーは死亡し、その息子[[ティプー・スルタン]](在位1782 - 1799)が新たな王となった。ティプー・スルタンもまた父同様に有能な君主であり、その武勇から「マイソールの虎」とも呼ばれ、第2次マイソール戦争をイギリス相手に有利に戦い、[[1784年]][[3月11日]]に{{仮リンク|マンガロール条約|en|Treaty of Mangalore}}を結んで戦争を終わらせた。
 
===ティプー・スルタンの統治と第3次、第4次マイソール戦争===
[[Image:Tipu Sultan BL.jpg|thumb|rightleft|[[ティプー・スルタン]]]]
[[File:Anglo-Mysore War 3.png|thumb|right|200px|第3次戦争によって没収されたマイソール王国の版図]]
[[File:Anglo-Mysore War 4.png|thumb|right|200px|第4次戦争によって奪われたマイソール王国の版図]]
 
新王ティプー・スルタンは父同様に広い国際視野を持ち、イギリスと対立していた[[フランス]]はもとより、トルコのオスマン帝国や[[アフガニスタン]]の[[ドゥッラーニー朝]]、アラビア半島のオマーンに使者を送り、イギリスに対しての同盟を持ちかけた。
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しかし、[[1785年]]以降、デカンのマラーター同盟やニザーム王国と再び争うようになり(前戦争ではこれらは中立を保っていた)、イギリスも南インドの植民地計画を進めるようになり、マイソール王国の領土分割をねらう勢力はイギリスに加担した。
 
===第3次、第4次マイソール戦争とシュリーランガパッタナ陥落===
{{main|{{仮リンク|第3次マイソール戦争|en|Third Anglo-Mysore War}}|{{仮リンク|第4次マイソール戦争|en|Fourth Anglo-Mysore War}}}}
[[File:Anglo-Mysore War 3.png|thumb|right|200px|第3次戦争によって没収されたマイソール王国の版図]]
[[File:Anglo-Mysore War 4.png|thumb|right|200px|第4次戦争によって奪われたマイソール王国の版図]]
 
[[1790年]]初頭イギリスは、[[1789年]][[12月]]にティプー・スルタンがケーララ地方を侵略したことを口実に宣戦し、マラーター同盟、ニザーム王国、トラヴァンコール王国はイギリスに加担した。一方、フランスは前年からの[[フランス革命]]により兵を出せず、オスマン帝国は[[ロシア]]との戦争によりイギリスと結んでおり、マイソール王国は不利を強いられた。さらに、[[1792年]][[2月5日]]から[[3月18日]]にかけて、マイソール王国はイギリス、マラーター同盟、ニザーム王国の軍にシュリーランガパッタナを包囲され、マイソール王国軍は一連の戦いで20000人の死者を出した。そして、同月[[19日]]ティプー・スルタンは敗北を認め、{{仮リンク|シュリーランガパッタナ条約|en|Treaty of Seringapatam}}を結び、トラヴァンコール王国、コーチン王国などを除くケーララ地方全域をはじめとするマイール王国の約半分の領土と、多額の賠償金の支払いを約束し、その保証に二人の息子を差し出した。