「六人部是香」の版間の差分
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篤胤の『仙境異聞』は江戸期の[[奇書]]の一つに数えられるが、当時この書物は平田家に於ける門外不出・他見厳禁の神道二十五部秘書の一つでもあった。これ等の奇書と双璧をなすのが、[[紀州藩]]平田門下の[[参澤宗哲]]が編集した『神界物語』全廿巻であります。この物語は『幸安仙界物語』『幽界物語』等の題名でも知られている。宗哲は[[島田幸安]]という紀州若山在住の若い町医者が神仙の啓導により異界と交信し、九州の幽境(赤山仙境)に鎮まる高位の師仙の下に通うようになった経緯を人づてに聞き知り及ぶ。予てから幽冥界や[[道教]]の[[神仙道]]に興味を抱いていた宗哲は、早速幸安のもとを訪ね正式に入門の礼をとり誓詞を認めた。幸安を通じて霧島山幽境赤山に御鎮座される神仙に提出し、許諾幽許をうけ幽冥・幽政の有様を幸安から語り聞かされた奇譚を、詳細に記録して後に書き纏めた御仁であります。六人部是香には産須那社古傳抄廣義四巻(安政6年正月26日より筆を執り初めて如月十四日書き終ったもの)と申す著書がありますが、この第三巻目に論述されている幽政に関する記載には、『神界物語』からの引用がかなりなされておりまして、是香と宗哲には何らかの接点があったのではないかと思われる。宗哲は天保11年(1840年)[[本居内遠]]門に31歳で入門同年8月10日内遠の紹介によって平田篤胤門にも入門する。縁あって宗哲は安政元年(1854年)平田門下の逸材の一人下総国の宮負定雄と師走七日に紀州で邂逅している。宗哲の師である島田幸安はこの年十月下旬迄若山に在ったが、以後消息を絶ち仙去されたと云われている。この話を宗哲より聞かされた定雄は落胆したが、二人は同気相和し安政6年に定雄が逝去するまでの五年間の交流の中で相互に著作の交換をしている。是香が[[矢野玄道]]と邂逅したように、宗哲とも出合った可能性はなきにしも在らずでありましょう。平田宗家後継者の鐡胤も宗哲より幸安が仙童寅吉のように異界に通達した人物である事を聞き及び、甚く興味をそそられて一時期は島田幸安のもとに、鐡胤を筆頭に[[鈴木重胤]]を初めとして錚々たる平田門下の弟子たちと同伴し何度か紀州の寓居に足を運んでおり、世事一般から前世や寿命死後の世界や幽境の有様などについて幸安に実に様々な質問をなされており、質疑応答の記録なども残っている。後年鐡胤の身に何らかの不祥事や不都合な事が生じたらしく、以後は平田家に於いて参澤宗哲の著述類は一切読む事罷りならずと申され、火中に宗哲の本をくべられたとの事であります。以降宗哲は平田門下内で孤立無援の状態に置かれ、平田宗家の門人入門誓詞帳からも除籍抹消されている。鐵胤の性質は温厚で、人と競はず、緻密で物事に対して拘泥せずと云われているが、その反面鐡胤には鈴木重胤との軋轢があった事は有名な話で、最後は犬猿の仲になっているし、玄道や厳夫が何度も礼を尽くし篤胤の著書を閲覧する事を願っても、閲覧させなかったりしておられる。毀誉褒貶相半ばする事は、人の世の常であって仕方のない事かもしれませんが。平田門下の逸材の一人[[宮負定雄]]など一部の者達は幸安を甚く評価しており、参澤が師匠の幸安から聞き糺し編集した異界の書「神界物語」の内容に全幅の信頼を置いていた。二十巻末文には定雄自らが本の賛辞を掲載しており、内容は
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