「清凉寺」の版間の差分

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=== 国宝 ===
;木造釈迦如来立像および像内納入品
:「歴史」の項で述べた、いわゆる「三国伝来の釈迦像」である。像高160.0cmで、伝承では赤栴檀というインドの香木で造られたとされるが、実際には魏氏桜桃という中国産のサクラ材で作られているという。一見して日本の通例の仏像と異なり、『悟り済ました釈尊』ではなく『修行中の釈迦』だといわれている。顔の頬骨は苦行のため痛ましく痩せ細り、縄目状の頭髪は何十年も梳ること無く乱れている様を表し、同心円状の衣文の形式など一見して日本枯れ木通例の仏像と異よう手足を今にも破れんばかりに痛んでいる法衣に覆われている様表している。全身に厳しい苦行の極みしながらエキゾチックな顔とその眼差しは、なお衆生を救う悲願を見つめるかのようその様相に奝然が感動し、宋に滞在中の985年、台州開元寺で作らせたもので、背板(内刳の蓋板)裏面の刻銘や像内納入文書の記述から、張延皎および張延襲という仏師の名もわかっている。古代インドの優填王が釈迦の在世中に造らせたという釈迦像の中国への伝来については、北伝ルートと南伝ルートの2つの説がある。『釈迦堂縁起』は、当寺の釈迦像は鳩摩羅琰(くまらえん)が中央アジアの[[亀茲]]国に将来するが、その後、[[前秦]]の[[苻堅]]によって奪われ、中国にもたらされたとし、北伝説をとっている。清凉寺釈迦像の頭髪、衣文などの様式は[[ガンダーラ]]や中央アジアの仏教美術にその淵源が求められる<ref>井上正「奝然と優填王思慕像の東伝」『釈迦信仰と清凉寺』(特別展図録)pp.10 -11</ref>。
<!--清凉寺式佛像を特色づける衣文のもっとも古い佛像様式は”三国”の源であるインドの国立Mathura博物館に収蔵されている「Seated BUDDAHA」にみられる。同美術館図録『MATHURA KALA 1999」によれば、3世紀初頭に祖形が見られ、5世紀(ブグタ王朝期)に清凉寺式衣文のような流麗な線と形になっている。またニューデリーの国立博物館には、マトゥラで出土した、完成度が高い「施無畏印のブッダ立像」が、5世紀の名品として陳列されている。古代ギリシアの彫刻様式の影響を受けたガンダーラ佛像を見慣れた目で見ると、異国的にみられるマトゥラ佛像様式は、インドの宗教の中心部ではぐくまれた佛像様式である。「顔容が温和・優雅、まなざしは深く瞑想的」(中村元)であり、薄絹の衣文に包まれた容姿はしなやかさにみちている。-->