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[[平安時代]]後期には[[甲斐源氏]]の一族が甲府盆地の各地へ荘園管理者として進出するが、甲斐源氏の棟梁である[[武田信義]]は[[韮崎市]]神山町武田の地に居館を構えていたと言われ、進出時期は不明だが信義の子[[一条忠頼]]の頃には当荘に拠る。
 
『[[尊卑分脈]]』によれば、忠頼の子行忠が[[甘利氏]]を称したといわれる。[[江戸時代]]後期に編纂された『[[甲斐国志]]』では[[韮崎市]]旭町上条北割の大輪寺境内を館跡としているが、境内にあたる大輪寺東遺跡の[[発掘調査]]では戦国期の遺物は見られるが中世前期まで遡る遺構や遺物は見られない。甲斐源氏の一族は平安後期の[[治承・寿永の乱]]において活躍し、[[源頼朝]]の武家政権に参加するが、『[[吾妻鏡]]』によれば[[元暦]]元年([[1184年]])に一条忠頼は[[鎌倉]]において頼朝に謀殺され、行忠も処刑され甘利荘も没収されたという。
 
その後、甘利荘の在地領主は定かではないが、「武田福寿丸申状」『八坂神社記録』([[紙背文書]])に拠れば、[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]初期に没収された[[石和御厨]]の還付を願う[[武田政義]]の子武田福寿丸が、忠頼子孫に甘利荘が還付されたことを先例として挙げている。甲斐一条氏は忠頼死後に[[武田信光]]の子一条信長により継承され、信長は神山町武田の[[武田八幡宮]]への大般若経の奉納や、孫である時信の子孫は[[武川衆]]として土着しているなど盆地北西部地域との関わりが深く、甘利荘を領有していた可能性が考えられている。