「小泉城 (大和国)」の版間の差分

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その後[[豊臣秀長]]が大和国を治めるが、その家臣であった羽田長門がこの小泉の地に4万石で入った。この時に現在もあるナギナタ池、お庭池を含む外堀を造ったものと言われ、小泉氏の館跡を拡大したと思われている。
[[ファイル:Katagiri.jpg|thumb|left|片桐且元像/[[慈光院]]蔵]]
[[1601年]](慶長6年)、[[豊臣秀吉]]に仕えていた[[片桐且元]]の弟[[片桐貞隆]]が小泉城を含め1万5千石で[[大名]]の列に加わった。その後『茨木市史』によると「片桐氏の茨木入城の時期については関ヶ原合戦後と考えた方がよい」と強いるのであり、[[関ヶ原の戦い]]後に片桐且元、片桐貞隆兄弟の本拠地としていた[[龍田城]]や小泉城から、[[大坂城]]の近くにある[[茨木城]]に置い移って[[豊臣氏]]を補佐していた。
 
そして[[大坂の役]]が終わると、今度は[[徳川家康]]より片桐且元は4万8千石、片桐貞隆は1万6400石に加増され、片桐貞隆は[[1623年]](元和9年)に小泉城に戻ってきた。ここより小泉陣屋として新たにスタートし、陣内にいた[[農民]]を街道筋に屋敷替えを命じ再び大きく改修した。
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歴代藩主の御墓は京都の[[大徳寺]]にある。
 
== 城郭 ==
小泉城は[[大和小泉駅]]の西北約600mの台地上の先端部に建っていた。台地の東側は湿田で、更にその東側には[[富雄川]]が流れている天然の要害の地にあった。主郭部分は小泉城の西側にあり、150mの長辺で内堀に囲まれており、この内堀は[[1673年]](延宝元年)に[[銀]]4[[貫]]目で完成したと『旧記』には記されている。この頃になると小泉城はほぼ完成され、外堀、[[薙刀]]池、お庭池に取り巻かれ、その中に家中の屋敷があり、内堀の内側には藩主の居館があった。{{-}}
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