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'''木下 俊治'''(きのした としはる、[[慶長]]19年([[1614年]])- [[万治]]4年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]([[1661年]][[5月1日]]))は、[[豊後国|豊後]][[日出藩]]の第2代藩主。
 
初代藩主・[[木下延俊]]の三男。母は福富内記の娘。([[細川幽斎|細川藤孝]]の娘は夭折した兄、もしくは姉を産んだ後早くして亡くなっている。)正室は[[三河吉田藩|吉田藩]]主・深溝[[松平忠利]]の娘。継室は[[土浦藩]]主・[[西尾忠永]]の娘。側室に安藤氏。子は[[木下俊長|俊長]](長男)、[[木下長治|長治]](次男)。官位は従五位下、[[伊賀国|伊賀]]守。
 
[[寛永]]19年([[1642年]])、父の死去により跡を継ぐ。このとき、弟の[[木下延次|延次]]に50005,000石を分与した。[[江戸]]府内火番役などを務め、[[明暦]]2年([[1656年]])の豊後[[府内藩]]主・[[日根野吉明]]の[[改易]]では、[[松平英親]]とともに在番を務めた。藩政では[[薩摩藩]]から「[[シチトウ|七島蘭]]」を導入して、その国産化に努めている。
 
万治4年(1661年)4月3日、[[参勤交代]]途中の三河二川において急死した。享年48。死後、家督は長男・[[木下俊長|俊長]]が継いだ。墓所は[[大分県]][[速見郡]][[日出町]]の松屋寺。法号は天沢院。