「モハンマド・レザー・パフラヴィー」の版間の差分

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'''モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー'''({{Rtl翻字併記|fa|'''محمدرضا شاه پهلوی'''|'''Mohammad Rezā Shāh Pahlavi'''}}、[[1919年]][[10月26日]] - [[1980年]][[7月27日]])は[[パフラヴィー朝]][[イラン]]の第2代にして最後の皇帝([[シャー|シャーハンシャー]]、在位:[[1941年]][[9月26日]] - [[1979年]][[2月11日]])である。'''パフラヴィー2世'''とも呼ばれる。亡命前後の日本の報道では'''パーレビ国王'''と呼ばれることが多かった。
 
父である代の皇帝[[レザー・パフラヴィー|レザー・シャー]]の退位により即位し、「[[白色革命]]」を推進してイランの[[近代化]]を進めたが、[[イラン革命]]により失脚した。
 
== 生涯 ==
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このために連合国の[[イギリス]]と[[ソビエト連邦]]は、[[1941年]][[8月25日]]に[[イラン縦貫鉄道|鉄道]]を含む[[ペルシア回廊|補給路]]と、[[石油]]などの豊富な資源の確保のためにイランへの侵攻を行った。この侵攻を受けてレザー・シャーは、連合国の一国でイランとの関係も深かった[[アメリカ合衆国]]の[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に仲介を求めたものの拒否され、[[9月17日]]にはイラン軍は制圧された。その後イランは両国による[[イラン進駐 (1941年)|共同進駐]]を受け、両国の圧力を受けて退位した父に代わり、モハンマド・レザーはモハンマド・レザー・シャーとして皇帝に即位した。
 
同年に[[ムハンマド・アリー朝]][[エジプト王国|エジプト]]の[[近代エジプトの国家元首の一覧|国王]][[フアード1世 (エジプト王)|フアード1世]]の長女[[ファウズィーヤ・ビント・フアード|ファウズィーイェ・ビント・フォアード]]と結婚したが、のちに不和となり[[1948年]]に離婚した。次いで[[1951年]]にイラン南部の[[バフティヤーリー族]] [[:en:Bakhtiari people|<small>(英語版)</small>]]の貴族の長女[[ソラヤー・エスファンディヤーリー・バフティヤーリー]]と再婚したが、後に彼女が不妊症であることが発覚し、帝位継承の安定のため、[[1958年]]にやむなく離婚した。そして[[1959年]]にイラン軍軍人の一人娘{{仮リンク|ファラフ・ディーバ|en|Farah Pahlavi}}とみたび結婚した。
 
=== 近代化政策 ===
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このような政策を支持した欧米諸国、とりわけアメリカ合衆国は革命直前の[[1970年代]]に至っても深い関係を続け、1970年代中盤には、まだ他の同盟国にも販売したことのない最新鋭の[[グラマン]][[F-14 (戦闘機)|F-14]]戦闘機をイラン空軍に納入したほか、同じく最新鋭の[[ボーイング747-SP]][[旅客機]]を[[イラン航空]]に販売するなど、イランを事実上の最恵国として扱った。
 
また、皇帝モハンマドは改革の一環として、[[フェミニズム|女性解放]]をかかげて[[ヒジャブ]]の着用を禁止するなどイランの[[政教分離原則|世俗化]]を進めたが、これらの政策は[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー]]ら[[ウラマー|イスラム法学者]]の反発を招いた。
 
例えば[[1962年]][[10月6日]]に、[[選挙|地方選挙]]において[[選挙権]]と[[被選挙権]]を[[ムスリム]]のみに限った条項を撤廃し、[[バハーイー教]]徒などにも[[市民|市民権]]への道を開こうとした時には、ムスリム[[異教徒]]、とりわけ[[シーア派]]保守派からは「[[邪教]]徒」「[[カーフィル]]」とされるバハーイー教徒がムスリムと対等になることを嫌ったホメイニーらの抵抗にあい、法改正の撤回を余儀なくされた<ref>「イスラーム統治論・大ジハード論」ホメイニー著、富田建次訳、第4章pp142</ref>。
 
その後ホメイニーは反体制派に対する影響力を警戒されて[[強制退去|国外追放]]され、イギリスの[[ロンドン]]へ向かおうとしたがイギリス政府に拒否されたため、最終的にイラン人亡命者コミュニティのあった[[フランス]]の[[パリ]]へ亡命したが、その後もイラン国内の反体制派に影響を与え続けた。
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=== 国威の発揚 ===
[[ファイル:EmpfangPersepolis.jpg|thumb|right|220px|1971年、イラン建国2500年祝賀式典に臨むモハンマド・レザー・シャー]]
モハンマドはさらに自らの称号を「[[アーリア人]]の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」と定め、イラン人の民族意識を鼓舞した。イラン人の民族意識の鼓舞の代表的なものとして、[[1971年]]に古代の[[アケメネス朝]][[ペルシア帝国]]の遺跡[[ペルセポリス]]で[[:en:2,500 year celebration of the Persian Empire|イラン建国2500年祝賀式典]]を開催したことが挙げられる。この行事には多数の[[国賓]]が招待され、[[エチオピア帝国]]の[[ハイレ・セラシエ]]皇帝や、日本の[[皇族]]で[[古代オリエント]][[歴史学者|史学者]]の[[三笠宮崇仁親王]]等も招かれていた。
 
同時にキュロス2世が[[紀元前539年]]に[[新バビロニア]]を滅ぼした際、[[バビロン捕囚]]から[[ユダヤ人]]などの諸民族を解放し、各々の故郷に戻して彼らの神殿を再建したと記録されているキュロスの[[円筒印章]]({{仮リンク|キュロス・シリンダー|en|Cyrus Cylinder}})の複製(現物は[[大英博物館]]蔵)を、「世界初の人権宣言」として[[国際連合]]に贈呈した。
 
またシャーモハンマドは、この行事を記念して首都テヘランに「シャーの栄光」を意味するシャーヤード・タワーと、その南にある[[レイ (イラン)|レイ]]という町に先代の皇帝である父親[[レザー・シャー]]の[[霊廟]]を建設した。なお、シャーヤード・タワーは革命を期に「自由」の名を冠したアーザーディー・タワーと名称を変えられた。現在レザー・シャー霊廟は跡形もなく破壊され、跡地は[[マドラサ|イスラム教の神学校]]になっている。
 
同年より従来の[[ジャラーリー暦]]に代わって[[イラン暦|帝国暦]]を採用、[[キュロス2世]]がメディアを滅ぼしてアケメネス朝を起こした[[紀元前550年]]をキュロス紀元とした。しかし1979年の革命の後、イスラム共和制の成立によりヒジュラ紀元のジャラーリー暦に改定された。
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=== 政策の動揺 ===
[[ファイル:Mass demonstration.jpg|thumb|right|220px|当時のテヘラン市内のデモ]]
[[冷戦]]下において欧米や[[日本]]などの先進国との石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた近代化政策は、1970年代中盤に起きた[[オイルショック]]後の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入ると破綻した。それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政治への不満も高まりを見せ、シャー皇帝の求心力も急激に低下した。
 
アメリカ合衆国を後ろ盾とするシャーの開発独裁体制に対する反体制運動は、ホメイニーをはじめとする[[イスラム主義]]者のみならず、[[モジャーヘディーネ・ハルグ]]やソビエト連邦などが支援した<ref>「The Fall of a Shah」 [[英国放送協会|BBC]] 2009年2月27日 ファラフ・パフラヴィー元皇后の証言</ref>[[イラン共産党]](トゥーデ党)などの[[左翼]]なども参加して激化し、国内では[[デモ]]や[[ストライキ]]が頻発した。
 
=== 亡命 ===
シャーモハンマドはテヘラン市内に[[戒厳令]]を敷き、夜間外出禁止令を発令するなどしてこれに対応したものの事態は収拾がつかず、[[1979年]][[1月16日]]に休暇のためにイランを一時的に去ると称して皇帝専用機の[[ボーイング727]]を自ら操縦し皇后や側近とともに[[エジプト]]に亡命した後、[[モロッコ]]、[[バハマ]]、[[メキシコ]]を転々とした。
 
ホメイニーは[[2月1日]]に15年ぶりの帰国を果たすと、直ちにイスラム革命評議会を組織し、[[メフディー・バーザルガーン]]を首相に任命した。その後、シャーモハンマドが任命したシャープール・バフティヤール首相の指揮下でシャー皇帝への忠誠を誓っていた帝室親衛隊およびイラン陸軍の空挺部隊と内務省の治安部隊が、ホメイニーへの支持を表明したイラン陸軍内部の不満分子と戦闘状態になるものの、[[2月11日]]に制圧された<ref>正規軍の大半は政権側にもホメイニー側にも加担せず、事態を静観していた</ref>。
 
バフティヤール首相や帝室親衛隊隊長らは逮捕され、バフティヤール首相は[[2月13日]]に正式に辞任した。その後イスラム革命評議会がイスラム主義を基礎に置いた[[イスラム共和制]]をしいた。
 
=== 死去 ===
[[ファイル:Tomb of Muhammad Reza Pahlavi.JPG|thumb|right|220px|モハンマド・レザー・シャーの墓]]
シャーモハンマドはその後[[癌]]治療のためという名目で皇后らとアメリカに移ったが、アメリカがその入国を認めたことに反発した学生らが[[1979年]][[11月4日]]にテヘランのアメリカ大使館を占拠してシャーモハンマドの身柄引き渡しを求めるという、[[イランアメリカ大使館人質事件]]が起きた。この事件により[[アメリカ合衆国とイランの関係|アメリカとイランの関係]]は決定的に悪化した。
 
シャーモハンマドはこの事件の発生を受けて[[12月5日]]にアメリカを離れ[[パナマ]]へ向かった。その後[[1980年]][[7月27日]]に亡命先のエジプトの[[カイロ]]で、[[アンワル・アッ=サーダート|サダト]]大統領の保護のもとに受け入れられ翌[[1980年]][[7月27日]]に[[カイロ]]で失意のうちに死去した。
 
{{仮リンク|ファラフ・ディーバ|en|Farah Pahlavi|label=ファラフ・パフラヴィー}}皇后は、[[2009年]][[3月30日]]BSドキュメンタリー番組で放送されたイラン人映画監督ナヒード・ペーションによるドキュメンタリー「忘れられし王妃~イラン革命30年ふたりの女性の人生の空白~」の中で、厳重な警備の中、[[パリ]]等で慈善活動を行いながら余生を送っている姿を見せた。
 
== 人物 ==