「南都焼討」の版間の差分

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== 戦後 ==
年が明けて治承5年になると清盛は直ちに東大寺や興福寺の[[荘園]]・[[所領]]を悉く没収して[[別当]]・[[僧綱]]らを更迭、これらの寺院の再建を認めない方針を示した。ところが、その最中に親平氏政権派の[[高倉天皇|高倉上皇]]が死去、続いて[[2月4日 (旧暦)|閏2月4日]]([[1181年]][[3月20日]])には清盛自身も謎の高熱を発して死去。人々はこれを南都焼討の[[仏罰]]と噂した。また、[[東国]]の[[源頼朝]]の動きも不穏との情報が入ってきたために、清盛に代わって政権を継承した[[平宗盛]]は、[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]に東大寺・興福寺以下の南都諸寺への処分を全て撤回した。
 
4月に入ると、平氏政権側は後白河法皇が南都の被害状況を把握するために使者([[院司]][[蔵人]][[藤原行隆]])を派遣することを容認した。行隆は同地で[[重源]]という僧侶と出会い、東大寺再建の必要性を説かれる。帰京した行隆の報告を受けた法皇は重源を召して[[大勧進職]]に任命、直ちに東大寺の再建に取り掛かることになった。また、興福寺も後に再興され、後に大和国[[守護]]の地位を獲得することになる。