削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
5行目:
[[宇多天皇]]の頃より、天皇の日常の居所が清涼殿に定着化され、儀式や公事への参加あるいは天皇に近侍して身辺の雑用や宿直・陪膳などの職務を行うためには昇殿は欠かせないものであった。昇殿は天皇の代替わりごとに選定が行われ、'''昇殿宣旨'''(しょうでんのせんじ)と呼ばれる[[宣旨]]を受けて、殿上の間に備えられた簡(札)に氏名が記されることで昇殿が認められ、必要に応じて殿上の間に詰めることが許されていた。また、[[太上天皇|院]]や[[女院]]、[[中宮]]や[[東宮]]もそれぞれの[[御所]]においても独自の昇殿を行っていた。これらは内裏への昇殿が認められた内殿上人よりは格下とみなされていた。これは[[院政期]]に入って実際の政務の場が[[院庁]]に移った後も同様であり、[[12世紀]]の公家日記(『[[兵範記]]』など)に記された供奉人の名簿においても、内殿上人を優先的に記して院殿上人はその次に記された。それはその院が[[治天]]であったとしても変わる事は無かった。これは、当時はまだ[[天皇]]を貴族社会の秩序の頂点とみなす空気が強かった事情を反映している。また、院殿上人の選定には院の意向が強く働き、比較的身分にとらわれない昇殿が行われたことも背景にあると考えられている(相対的に内殿上人の方がより身分が高い者が集まることになる)。これは、院御所への[[武士]]の昇殿(院昇殿)が内裏への昇殿(内昇殿)よりも先に認められていることからでも理解可能である。
 
[[公卿]]は原則的に昇殿が許され、また四位の[[参議]]は[[議政官]]の一員として例外的に公卿に準じた扱いが認められていた。両者を合わせて'''上達部'''(かんだちめ)と称する。もっとも、政治的な理由や天皇個人との関係を理由として公卿でも昇殿が許されない事例もあり、そういう人々を「地下の上達部」と称した。代表的な例として[[東宮]][[居貞親王(後の[[三条天皇]]の[[尚侍]]・[[藤原綏子]]と密通した[[源頼定]]は居貞親王([[三条天皇]])[[即位]]後に既に公卿であるにも関わらず昇殿が許されなかった(『[[大鏡]]』)。また、後世には[[地下家]]の者が[[従三位]]以上に達しても昇殿を許されない慣例が成立した。
 
一方、四位・五位の者が昇殿を認められるには昇殿宣旨を受ける必要があった。[[殿上人]]・雲客と呼び、昇殿を許されない[[地下人|地下]]との間に明確な区別があり、[[公家社会]]における身分基準の基本とされた。なお、殿上人にも例外があり、[[六位蔵人]]はその職務上の必要から昇殿宣旨を受けられた(この場合、[[蔵人所]]が申請を行って宣旨を得た)。また、[[摂家|摂関家]]などの有力者の子や孫は[[蔭位]]に基づく[[小舎人]]の資格で昇殿が許された。これを'''童殿上'''(わらわてんじょう)と呼ぶ。