「露土戦争 (1686年-1700年)」の版間の差分
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| date = [[1686年]] - [[1700年]]
| place = [[アゾフ]]、[[クリミア半島]]
| result = [[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]の勝利、
| combatant1 = {{RUT}}
| combatant2 = [[ファイル:Flag of the Ottoman Empire (1453-1844).svg|25px]][[オスマン帝国]]<br />[[ファイル:Gerae-tamga.svg|25px]][[クリミア・ハン国]]
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アゾフを占領し黒海進出の足がかりを得たロシアは、クリミア・ハン国に[[フェオドシヤ|カッファ]]での奴隷貿易を禁止させ、クリミア・ハン国への貢納金の停止が決定される。[[1243年]]、[[ヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公)|ヤロスラフ2世]]が[[ウラジーミル大公]]位につくために[[バトゥ]]に承認を受け、貢納金と兵力提供を確約されて以来、実に436年の歳月が過ぎて、ピョートル1世の手で名実共に「[[タタールのくびき]]」が断ち切られた<ref name="ピョートル大帝の時代"></ref>。
ピョートル1世はさらに多くを望んで1699年に他の神聖同盟諸国とオスマン帝国との講和条約である[[カルロヴィッツ条約]]が結ばれてもこれを認めなかったが、ロシア単独でオスマン帝国に立ち向かうのは不可能のため、[[1700年]]に[[コンスタン
== 脚注 ==
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* [[大トルコ戦争]]
* [[カルロヴィッツ条約]]
* [[コンスタンティノープル条約 (1700年)]]
* [[ピョートル1世]]
* [[アゾフ]]
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