「カンポ・フォルミオ条約」の版間の差分

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== 内容 ==
「不可侵の平和」という通常の国際条項を越えて、条約はフランスに多くの[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]領をもたらした。

譲渡された領土には[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]([[ベルギー]]諸州)、地中海の[[コルフ島]]・[[アドリア海]]の島々と[[ロンバルディア]]が含まれた。

ナポレオンはヴェネツィア政府が看過した占領中のフランス軍への反乱に対して300万[[フランス・フラン|フラン]]の償金を支払わせ、同額の海軍軍需品を徴発し、軍艦5隻・名画20点・古文書500巻を献納させた。

ヴェネツィアの領土は2つの国家の間で分配され、ヴェネツィア・[[イストリア]]および[[ダルマチア]]はオーストリアに譲られた。オーストリアは[[チザルピーナ共和国]]とジェノヴァ人が居住する新しく形成された[[リグリア共和国]]の独立を認めなければならなかった。
 
条約は秘密条項を含み、その中で[[リグリア]]を独立させ、[[ライン川]]([[ネッテ川]]および[[ルール川]])までフランス国境を拡張することを認めている。さらにフランスはライン川・[[ムーズ川]]・[[モーゼル川]]の自由な航行を保証された。フランス共和国はそれらの諸河を越えた自然境界と、イタリアに影響力を及ぼすことになる。
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条約は5ヶ月の交渉の末に調印された。 それは基本的に1797年4月の[[レオーベンの和約]]ですでに合意されたものであったが、交渉は多くの理由のために両当事者によって引き延ばされた。 協議期間の間にフランスは、オーストリアが期待していた9月に起こる[[王党派]]の[[クーデター]]を鎮圧する必要があった。伝記作者[[ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌ|ブーリエンヌ]]によると、総裁政府によってその野心を疑われていたナポレオンは[[パリ]]に帰還して事態を収拾する必要があり、さらに予想より早く寒気が訪れたため軍隊の移動ができなくなることを恐れ、自分でも不満である条約を[[総裁政府]]の許可を待たずに締結させたという。
 
ナポレオンの伝記作家、[[フェリックス・マーカム]](Felix Markham)は、「ヴェネツィアの分割は和平調停の道徳的な欠陥であっただけでなく、オーストリアにイタリアへの足場を残していた。さらなる戦争が続く」と書いた。 実のところカンポ・フォルミオは、ヨーロッパ地図をつくりかえ、ナポレオンの名声にとって主要なステップではあったが、ただの休戦条約であった。

そして、[[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア戦役]]におけるナポレオンの勝利およびフランス革命戦争([[ナポレオン戦争]])の第1段階の終わりを意味したに過ぎなかった。こうした両国の条約締結の不首尾は、翌年行われた、革命戦争終結のための講和会議、[[ラシュタット会議]]の決裂へと至ることになる。
 
== 外部リンク ==
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*[http://www.napoleon-series.org/research/government/diplomatic/c_campoformio2.html Background to the Treaty]
 
{{ナポレオン戦争}}
{{DEFAULTSORT:かんほふおるみおしようやく}}
[[Category:イタリアの条約]]