「森田草平」の版間の差分

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卒業後、岐阜に帰郷するが夏目漱石の『[[草枕]]』に感銘を受け妻子を郷里に置いて上京、漱石の元へ足繁く通う傍ら[[与謝野鉄幹]]が主宰する閨秀文学講座で講師を務める。この講座に聴講生として通っていた[[平塚らいてう]]と関係を持ち、[[1908年]](明治41年)に[[栃木県]][[塩原]]で[[心中]]未遂事件を起こす。この心中未遂の後始末として、漱石の推薦で翌年[[小説]]『[[煤煙 (小説)|煤煙]]』を[[朝日新聞]]に連載し、これが彼の[[文壇]]デビューとなる。
 
その後、[[野上豊一郎]]の紹介で[[1920年]]([[大正]]9年)に[[法政大学]][[教授]]となる。しかし[[1934年]](昭和9年)に法政大学の学内紛争から野上と対立し、[[関口存男]](後に公職追放)らの右派の革新教授や卒業生と共謀、野上はじめ教授多数(中には漱石門下以来の友人の[[内田百間|内田百{{CP932フォント|}}]]もいた)を大学から追放したものの、結果翌年に自身も大学を去ることになる。
 
その後は『吉良家の人々』『[[細川ガラシャ|細川ガラシヤ夫人]]』などの歴史小説を著す一方で[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]・[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]・[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]・[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ダヌンツィオ]]・[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカチオ]]などの翻訳を手がけた。
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== 関連人物 ==
*[[内田百間|内田百{{CP932フォント|}}]]
*[[平塚らいてう]]
*[[関口存男]]