「羽州街道」の版間の差分
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弘前藩の参勤交代につき加筆 |
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ほかの呼称としては、「山中通小坂越」「山中七ヶ宿街道」「七ヶ宿街道」と呼ばれた。[[福島藩]]から[[小坂峠]]を越えて仙台藩に入ると最初にある[[宿場町]]・上戸沢宿の辺りは[[仙台平]]と呼ばれ、現在は[[白石市]]小原[[小字|字]]仙台平として[[地名]]が残る。「七ヶ宿街道」の現在の道筋は、下戸沢宿までが[[宮城県道・福島県道46号白石国見線]]にあたり、その先で[[国道113号]]となり、湯原宿を過ぎると七ヶ宿町追分で[[山形県道・宮城県道13号上山七ヶ宿線]]となって、[[金山峠 (山形県・宮城県)|金山峠]]を越えて[[上山藩]]に入る。
[[参勤交代]]の際に利用した[[藩]]は13藩([[上山藩]]、[[山形藩]]、[[天童藩]]、[[長瀞藩]]、[[新庄藩]]、[[庄内藩]]、[[出羽松山藩]]、[[矢島藩]]、[[本荘藩]]、[[亀田藩]]、[[久保田藩]]、[[黒石藩]]、[[弘前藩]])。弘前藩は江戸時代初めに[[青森市|青森]]から出て[[盛岡市|盛岡]]を経由する奥州街道を使っていたが、寛文5年([[1665年]])から羽州街道を使うようになった<ref>北見俊夫『旅と交通の民俗』133-134頁。</ref>。
他の多くの街道と同様、江戸時代には統一された名称は無く、地域や進行方向によって「小坂通り」「最上道」「秋田道」「下筋街道」「碇ヶ関街道」など様々な呼び方をされていた。
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== 参考資料 ==
* 「羽州街道をゆく」藤原優太郎、無明舎出版、2002年 ISBN 4-89544-320-5▼
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* [[北見俊夫]]『旅と交通の民俗』(民俗民芸双書)、岩崎美術社、1970年。
▲* 「秋田県文化財調査報告書第141集 歴史の道調査報告VIII 南部羽州街道」秋田県教育委員会、1986年
== 脚注 ==
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