「エリック・ヒルマン」の版間の差分

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海ボチャン (会話 | 投稿記録)
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ロッテ退団後、金銭トレードにて年俸2億5000万円の2年契約で[[読売ジャイアンツ]]へ移籍。V2、そして日本一奪回のキーマンとして期待がかけられる。しかし、移籍後すぐに左肩を故障し、{{by|1997年}}はわずか2試合の登板(6[[イニング]])にとどまる。この年に肩の[[手術]]を行い、翌{{by|1998年}}の春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]で数回だけ良いピッチングを披露するが、「肩に違和感がある」という理由で再度離脱。仮病説が囁かれる中、「左肩に[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]が乗っているようだ」と弁明するなど「肩に違和感」というフレーズで登板拒否を繰り返し、「ミスター違和感」と呼ばれた。二軍落ちしてからは練習もそこそこに切り上げ、昼には帰宅していたことから「昼マン」と揶揄されていた。
 
結局、1998年は一度も登板せずシーズン途中で解雇となった。当時球団社長の[[渡邉恒雄]]は「金をやるから出ていけ!」と激怒したという。2シーズンに満たない在籍期間で、登板数2試合、投球回数6回で5億円を受け取りながら「俺を[[ケビン・ミッチェル|ミッチェル]]や[[マイク・グリーンウェル|グリーンウェル]]と一緒にしないでくれ」と[[マスメディア|マスコミ]]に反論し、巨人退団決定後には「巨人に復帰するのが夢だ」とコメント。最後は「肩が治ったら巨人の入団テストを受けに帰って来る」と言い残して日本を去った。退団後の{{by|2000年}}に[[ヒューストン・アストロズ]]傘下のAA級[[ラウンドロック・エクスプレス|ラウンドロック]]<ref>その後、ラウンドロックはAAA級に属している。</ref>で1試合に登板しているが、結局は巨人の入団テストを受けなかった。もっとも、巨人解雇直後の1998年7月、[[:en:James Andrews (physician)|ジェームス・アンドリュース]](後に[[田澤純一]]の[[トミー・ジョン手術]]を執刀)の下で肩[[関節鏡]]手術を受けたところ、左肩[[回旋筋]]腱板の全層断裂が判明したため、違和感の根拠があったの事実であった。結局、この肩の怪我が投手生命を終わらせることにり<ref>http://espn.go.com/blog/new-york/mets/post/_/id/20929/hillman-the-original-tallest-met</ref>、2000年で引退した
 
もっとも、巨人解雇直後の1998年7月、[[:en:James Andrews (physician)|ジェームス・アンドリュース]](後に[[田澤純一]]の[[トミー・ジョン手術]]を執刀)の下で肩[[関節鏡]]手術を受けたところ、左肩[[回旋筋]]腱板の全層断裂が判明したため、違和感の根拠があったのは事実であった。結局、この肩の怪我が投手生命を終わらせることになり<ref>http://espn.go.com/blog/new-york/mets/post/_/id/20929/hillman-the-original-tallest-met</ref>、2000年で引退した。
 
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