「備前喜夫」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ミラー海神 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
36行目:
尾道西高校(現・[[広島県立尾道商業高等学校|尾道商業高校]])から[[1952年]]、創設二年目の[[広島東洋カープ|広島カープ]]に入団。当時の広島県内の有力選手は、影響力が強かった広島球団後援会の援助をプロ入り前から受けており、大田垣も「'''他のチームに行ったら承知しない'''」と脅されていたという([[白石勝巳]]著書 『背番号8は逆シングル』 207頁)。
 
1952年[[3月21日]]で新人ながら[[開幕投手]]となり[[松竹ロビンス]]相手に初登板で完投し、初勝利を飾る。当時、エース・[[長谷川良平]]に[[中日ドラゴンズ|中日]]入りの話があって交渉がもつれ(結局は広島に残留したが)開幕に調整が間に合わず、大田垣に[[白羽の矢]]が立ったものであった。18歳5ヶ月での開幕戦勝利は、現在もプロ野球史上最年少記録である。2リーグ制以降、開幕投手を務めた高卒新人は大田垣、[[梶本隆夫]]、[[牧野伸]]と3人いるが、9回完投したのも大田垣一人である([[2013年]]まで)<ref>[[スポーツニッポン]]、2013年3月29日</ref><ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130325-1102522.html 大谷まず一刀で開幕8番右翼スタメン濃厚]</ref>。また、広島は広島は前年も新人の[[杉浦竜太郎]]が開幕投手を務めて完投勝利を挙げており、2年連続で新人が開幕完投勝利を収めるという珍しい記録を作った。また、広島の新人で初登板初勝利を挙げたのも長らくこの2人のみであった。[[1990年]]に[[佐々岡真司]]が38年ぶりに新人の初登板初勝利を記録し、現在までには89人が記録している<ref>杉浦、大田垣、佐々岡の他の顔ぶれは[[山内泰幸]]、[[黒田博樹]]、[[小林幹英]](唯一の救援勝利)、[[齊藤悠葵]]、[[福井優也]]、[[九里亜蓮]]である。このうち、高卒新人は大田垣と齊藤の2人である。</ref>([[2011年]]5月現在)。1952年、大田垣は結局7勝を挙げ、球団初の最下位脱出に貢献。身長170センチ、体重60キロと小柄ながら、強いリストを効かしたキレのいい直球と縦に大きく割れる[[カーブ (球種)|カーブ]]、プロ入り後覚えたといわれる[[球種 (野球)|シンカー]]で、長谷川良平と共にエースとして草創期の弱小カープを支えた。シンカーの名手として知られたが、打者が打つと腕を痛めたという逸話があるので、シンカーというより[[シュート (球種)|シュート]]に近い球を投げていたものと思われる。また、子鹿のように飛び跳ねるピッチングフォームから「[[バンビ (童話)|'''バンビ''']]」という[[ニックネーム]]で親しまれた。
 
翌[[1953年]]からは5年連続で2桁勝利を挙げるものの、この間2度20敗を記録。しかし、備前家の[[婿養子]]となって[[姓]]が変わり、[[野球の背番号|背番号]]も16番に変更した[[1957年]]には20勝を記録した。[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター戦]]出場2回([[1956年]]、[[1959年]])。1959年にはルーキーだった[[王貞治]]に、シーズン[[本塁打]]7本のうち2本を献上している。体格からか、やや体力に乏しかったともいわれ怪我が多く、[[1962年]]現役を引退した。
 
引退後は広島の投手コーチ、二軍監督を歴任し、[[1977年]]スカウトに転身。[[1987年]]にはチーフスカウトに就任し、計25年間に亘りスカウトとして活躍した。[[ドミニカ共和国|ドミニカ]]の[[広島東洋カープ#日本球界初のアカデミー|カープアカデミー]]開設にも尽力した。広島球団草創期に在籍した選手のうち、広島一筋に半世紀もの間、一度も球団から離れることのなかった唯一の人物である。現在の広島のコーチ・主力選手には、スカウトとしてほぼ全員と関わっている。[[2002年]]退団。
 
なお、1952年の大田垣以降、カープでは高卒新人投手の開幕[[先発ローテーション|ローテーション]]入りが一度も無く([[20102014年]]現在)、現在でも有望な高卒の投手が入団すると、報道等で大田垣の名前を耳にすることがある。
 
==詳細情報==