「クレメンス1世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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史実の裏づけはないが、伝承では[[ペトロ]]を直接知る人物であり、[[パウロ]]の書いた「[[フィリピの信徒への手紙]]」4:3に現れるクレメンスとは彼のことである、といわれてきた。
 
彼の手によるといわれる「[[クレメンスの第一の手紙]]」([[9196年]])は[[コリントス]]の教会で起きたトラブルを仲裁しようとしたクレメンスの書簡である。カトリックを中心に、ここから諸教会の仲介役としてローマ司教が役割を果たしていたと考え、それが後の教皇制度の萌芽になっていくと見るむきもある。一方、これをクレメンスがローマ教会の権威を他教会に及ぼそうとしたのであって、ローマ教会が常時そのような役割を果たしていたとは考えない学者もいる。
 
伝統的にクレメンスに帰された「[[クレメンスの第二の手紙]]」は、今日では2世紀半ばごろの成立と推測され、クレメンスの作ではないと考えられている。