「ニコライ・ルビンシテイン」の版間の差分

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モスクワ音楽院在任中に、チャイコフスキーを説き伏せて、有名な《[[ピアノ協奏曲第1番 (チャイコフスキー)|ピアノ協奏曲第1番]]》を作曲させたが、チャイコフスキーの書簡によると、ニコライはこの作品に無反応であり、書き直すなら初演を行おうと言い放ったという。チャイコフスキーはそれを撥ね付け、[[ハンス・フォン・ビューロー]]に初演を委ねて彼に献呈した。しかし結局、現在普及している版は改訂版であり、(ドーヴァー・パブリケーションズにより復刻された)初版ではない。その後、ニコライは評価を改めてモスクワ初演では指揮を担当し、以降ピアノ独奏も行うようになった。チャイコフスキーは《[[ピアノ協奏曲第2番 (チャイコフスキー)|ピアノ協奏曲第2番]]》を作曲した際に改めてニコライに献呈し、ニコライも今度は認めた。しかし、ニコライは[[1881年]][[3月23日]]に[[パリ]]で[[結核|腸結核]]により客死したため、自身による初演はかなわなかった(初演は翌[[1882年]]に兄アントンの指揮、[[セルゲイ・タネーエフ]]の独奏により行われた)。
 
ニコライの死後、チャイコフスキーは《[[ピアノ三重奏曲 (チャイコフスキー)|悲しみの三重奏曲]] イ短調》を作曲し『偉大な芸術家の思い出に』と献辞した。故人を偲んで室内楽曲を作曲するというロシア音楽の伝統は、[[アントン・アレンスキー]]から[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]を経て、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]や[[アルフレット・シュニトケ|シュニトケ]]に受け継がれた。
 
多少の作品を残しており、特に知られているのは《タランテラ ト短調》と《シューマンの主題による幻想曲》の2曲である。