「黒田孝高」の版間の差分

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=== 播州時代 ===
[[天文 (元号)|天文]]15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として播磨国の[[姫路市|姫路]]に生まれる<ref name="kafu">[[貝原益軒]]『黒田家譜』</ref>。永禄2年([[1559年]])、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる<ref name="kafu"/>。永禄5年([[1562年]])、[[小寺政職]]の近習となる。この年に父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る<ref name="kafu"/>。永禄7年([[1564年]])、[[室津]]の[[浦上清宗]]に嫁いだ妹<ref>黒田氏の系図類にはその存在は伺えない。播磨栄城主・[[井口家繁]]の娘を養女としたという。</ref>が、婚礼当日に敵対する[[龍野城]]主[[赤松政秀]]<ref group="注釈">[[永禄]]元年([[1558年]])、[[浦上政宗]]らの後見を得た嫡子の[[赤松義祐]]に追放された[[赤松晴政]]を、娘婿の[[赤松政秀]]が受け入れ、晴政の復権に関わった。</ref>に攻められ、夫・清宗や舅・[[浦上政宗|政宗]]、姫の実父・[[井口家繁]]<ref>播磨栄城主。[[黒田二十四騎]]の[[村田吉次]](初名:井口兵助)実家親戚にあたる。</ref>、黒田家臣の[[八代道慶]]<ref group="注釈">孝高の[[乳母]]の夫で、[[黒田二十四騎]]の[[吉田長利]]の父。</ref>らとともに討たれる<ref group="注釈">室津の八朔のひな祭りの由来は、この討たれた志織姫を悼んでのものとしている</ref>。永禄10年([[1567年]])頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる[[櫛橋伊定]]の娘の[[櫛橋光|光(てる)]]を正室に迎え、姫路城代となった。
 
永禄11年([[1568年]])9月、放浪中の[[足利義昭]]が[[織田信長]]と[[美濃国|美濃]]で会見して上洛を要請<ref group="注釈">小寺則職(政職の父)にも要請が届いている。</ref>し、[[三好三人衆]]を退けて[[室町幕府]]15代将軍となる。翌12年([[1569年]])8月、義昭と誼を結んだ赤松政秀<ref name="注釈">娘・さこの方を[[足利義昭]]の侍女としている。『大阪城天守閣所蔵文書』</ref>が、[[池田勝正]]、[[別所安治]]、[[宇喜多直家]]らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、孝高は奇襲攻撃を仕掛けるなど、300の兵で2度にわたり戦い、[[三木通秋]]の援軍などもあって撃退に成功する([[青山・土器山の戦い]])<ref group="注釈">同時期の永禄12年([[1569年]])5月より、[[大友義鎮|大友宗麟]]と交戦([[多々良浜の戦い]])していた[[毛利元就]]が、背後を突かれる形で、3年前に滅ぼしていた尼子氏の残党の[[立原久綱]]、[[山中幸盛]]らに、[[出雲国|出雲]]内で[[尼子勝久]]を擁立・再起され、更にそれを[[但馬国]]の[[山名祐豊]]、[[備前国]]の浦上宗景に後援された。元就が幕府に救援を求める。信長の配下である木下秀吉([[豊臣秀吉]])が8月1日に山名攻めに差し向けられ、[[播磨国|播磨]]を経由してわずか10日間で18城を落として鎮圧した(但馬攻め)。これは、[[青山・土器山の戦い]]と並行して行われている。</ref>。政秀は[[浦上宗景]]に攻められ降伏した。この後、三人衆が一旦は勢力を立て直し、[[信長包囲網]]が引かれ、義昭と信長の関係も疎遠になり始める。