「古典園芸植物」の版間の差分

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他方、[[藩]]によっては藩士の[[情操教育]]や精神修養のために園芸を奨励するところも少なくなく、[[趣味]]、[[癒し]]、芸術的[[精神]]の発露の手段として園芸、育種を行なう個人、[[結社]]も少なくなかった。ハナショウブの父とも讃えられる旗本、[[松平菖翁]](松平左金吾)やサクラソウの「下谷連」などはその例である。このようにして投機とは無関係に育種された植物も少なくない。
 
また栽培や繁殖の技術も追求され、冬期の保温の為に、今の[[温室]]や[[フレーム]]に相当する暖室(おかむろ)や唐室(とうむろ)が考案されたり、多くの植物で様々な仕立て方や鑑賞方法が生まれた。栽培法を解説した書籍も多く著わされている。[[雑種|種間交雑]]の知識はなかったが、アサガオでは[[メンデルの法則|遺伝]]の法則性]]が[[グレゴール・ヨハン・メンデル|メンデル]]以前に経験的に知られており、[[不稔性]]の品種の維持に活用されていた。
 
江戸時代後期には、いくつかの植物、特にサクラソウなど非投機的な植物において「[[連]]」と呼ばれる愛好家の結社が誕生した。これらはたいてい閉鎖的組織で厳しい規則を持ち、[[家元制]]的な組織にまで発展するものも見られ、[[品種]]は門外不出で、入会には[[世話人]]を必要とし、最初は初歩用の普及品種を、そして習熟するに従い稀少品種を与えられ、退会もしくは死亡すればその品種はすべて没収、あるいは[[一子相伝]]などの決まりを持つものもあった。同じような例は熊本の肥後六花でも見られ、現在でも厳しい規則を保持している連がごく一部に存在する。一方でそういった組織に加わらず単独で栽培育種を楽しむ愛好家もいた。