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'''お梅'''(おうめ、生年不詳-[[文久]]3年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]もしくは[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]([[1863年]][[10月30日]]))は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])の女性。[[新選組]]筆頭局長・[[芹沢鴨]]の愛妾<ref>[[永倉新八]]『[[浪士文久報国記事]]』『[[新選組顛末記]]』。</ref>。
以下の記述は、[[昭和]]になって
== 生涯 ==
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その頃、壬生浪士組では芹沢ら[[水戸]]派と[[近藤勇]]ら[[試衛館]]派との間で主導権争いが起きていた。文久3年(1863年)9月16日(18日とも)、新選組は島原の[[角屋]]で[[芸妓]]総揚げの宴会をし、その日の暮れ前にお梅が八木家にやって来た。そのうち、水戸派の[[平間重助]]の馴染みの芸妓の[[輪違屋]]の[[糸里]]、[[平山五郎]]の馴染みの桔梗屋[[吉栄]]もやって来た、芹沢たちが留守なので吉栄や八木家の女中とお勝手で談笑していた。夜になって芹沢、平山、平間そして副長の[[土方歳三]](試衛館派)が帰ってきた。そこで、お梅たちを呼んで酒宴の続きをし、泥酔した芹沢は奥の十畳間にお梅と寝入った。吉栄と糸里もそれぞれの相手と同衾した。
深夜、芹沢たちが寝ていた部屋に数人の男たちが押し入った。平山を殺害、芹沢は切りつけられて起き上がるや真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、そこで刺客たちにずたずたに切り殺された。芹沢と平山を殺すと刺客たちはすぐに立ち去った。為三郎たちが芹沢の部屋へ様子を見に行くと
その後、幹部の芹沢と平山の死体は新選組が引き取ったが、お梅は引き取り手がな
== 脚注 ==
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