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| 出生日 = [[53年]][[9月18日]]
| 生地 = {{仮リンク|イタリカ|en|Italica}}([[ヒスパニア・バエティカ]]属州)
| 死亡日 = [[117{{死亡]][[89]]と没年齢|0053|9|18|0117|8|9}}
| 没地 = {{仮リンク|セリヌンテ|en|Gazipaşa}}([[キリキア]]属州)
| 埋葬日 =
青年期を迎えるとトラヤヌスは軍団への参加を通じて政治的キャリアを築き始め、各地を転戦する日々を送る。父が[[シリア]]総督として現地に赴任した74年、トラヤヌスも[[トリブヌス・ミリトゥム]](幕僚)として派遣された記録が残っている。76年には[[クァエストル]](財務官)、84年には[[プラエトル]](法務官)に就任している。86年には[[ヒスパニア・タッラコネンシス|ヒスパニア・タラコネンシス]]属州に[[第7軍団ゲミナ]]{{enlink|Legio VII Gemina}}の[[レガトゥス・レギオニス]](軍団長)として駐留するなど、[[フラウィウス朝]]時代に立身出世を果たした。
 
ライン川防衛の指揮官であった[[上ゲルマニア]][[属州総督]][[{{仮リンク|ルキウス・アントニウス・サトゥルニヌス]]{{enlink|en|Lucius Antonius Saturninus}}が[[第14軍団ゲミナ]]と[[第21軍団ラパクス]]を率いてドミティアヌスに対して反旗を翻すと、その鎮圧に功績をあげた<ref>Bennett, ''Trajan'', pp.30-31.</ref>。明確に歴史の表舞台に立つのは、91年の[[コンスル]](執政官)就任に伴うローマ凱旋時で、シリア属州から建築家[[ダマスカスのアポロドーロス|ダマスクスのアポロドロス]]を連れて帰国した。
 
96年、[[ドミティアヌス]]暗殺によって[[フラウィウス朝]]が断絶すると、元老院の支持をまとめた古参貴族の元老院議員[[ネルウァ]]が皇帝に即位した。しかし、子息を持たず高齢であった[[ネルウァ]]が新たな王朝は当初は[[シリア属州]]総督の[[マルクス・コルネリウス・ニグリヌス・クリアティウス・マテルヌス]]形成でき選んだと考えられてい可能性は低く、97年に結局は後継者としてトラヤヌスを指名した。軍の支持を集めるトラヤヌスの指名を[[プラエトリアニ|親衛隊]](近衛隊)に強要され、跳ね除けることができなかったためとされる。『[[ローマ皇帝群像]]』は、このときトラヤヌスの従甥[[ハドリアヌス]]が重要な役割を演じたと主張している<ref>Augustan History, ''Life of Hadrian'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Hadrian/1*.html#2.5 2.5-6].</ref>。翌年にネルウァが2年足らずの治世で病没すると、あらかじめ養子縁組を結んでネルウァ家の家督を継いでいたトラヤヌスが即位した。実質的にネルウァ帝が中継ぎに終わったことに加えて軍の支持もあり、帝位は円滑に継承された。
 
=== ドミティアヌス時代への弾劾 ===
=== ナバテア併合 ===
[[File:Arabia SPQR.png|thumb|200px|アラビア属州]]
[[ダキア戦争]]と同時期、ローマの衛星国[[ナバテア王国]]の君主[[{{仮リンク|ベル2世ソテル]]{{enlink|en|Rabbel II Soter}}が病没した。トラヤヌスはこの機会を逃さずナバテア王国を併合して[[アラビア・ペトラエア]]属州として編入した<ref>Bennett, ''Trajan'', pp.172-182.</ref>とみられるが、詳しい経緯や方法は記録されていない。わずかに分かっているのは、エジプトで発見された[[パピルス]]式の報告書に、107年にローマ軍の一部がナバテア王国の都[[ペトラ]]周辺に出兵したとの記録のみである<ref>Bennett, ''Trajan'', p.177.</ref>。
 
=== 戦間期 ===
トラヤヌス自身は西側の部隊を率いて、ユーフラテス川沿いに南進。[[セレウキア]]と[[クテシフォン]]の北の両大河の間隔が狭くなっている地点で、船をユーフラテス川からティグリス川へと陸上を通して渡らせた。この遺構は、363年のペルシア遠征時に[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]が利用している。116年夏、準備が整うと、まずティグリス川西岸のセレウキアを陥落させ、次いで対岸のクテシフォンを無抵抗のうちに占領した<ref name="Bennett, Trajan, p.199.">Bennett, ''Trajan'', p.199.</ref>。その後もティグリス川河口まで、いくつか都市を占領した。前年に元老院より贈られていた「パルティクス」(''Parthicus'', パルティアの征服者)の称号も、これ以降に名乗るようになる。
 
ついに[[ペルシア湾]]に到達したトラヤヌスは、湾岸周辺を治める[[カラケネ王国]]の[[カラクス・スパシヌ]]{{enlink|Charax Spasinu}}王と手を結んだ。カラクス・スパシヌはローマの元老院へ送った書状の中で「彼がインドに向かった[[アレクサンドロス大王3世|アレクサンドロス]]よりも年老いていることだけは残念に思う」と評している<ref name="Bennett, Trajan, p.199."/>。しかしながらトラヤヌスの遠征事業はペルシア湾周辺で切り上げられ、本国へと帰還を開始した<ref name="Bennett, Trajan, p.199."/>。パルティアには、ローマで教育を受けた王弟[[パルタマスパテス]]を傀儡君主として立てることで決着としたが、パルティアはもはやこれに抗う術を持たなかった<ref>Bennett, ''Trajan'', p.200.</ref>。
 
=== 東方の反乱と帝位継承 ===
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