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== 人物・エピソード ==
1935年(昭和10年、『[[嵐寛寿郎プロダクション]]』の発声映画『活人剣荒木又衛門』([[マキノ雅弘|マキノ正博]]監督)の富士山麓でのロケでのこと。同時録音のマイク係だった藤田は、マイクの性能のあまり良くない時代でもあり、一所懸命考えて道路の土の中にマイクを見えない程度に隠した。それを[[嵐寛寿郎]]が「こんなもんで音が録れるか」と云って、足でポーンと蹴った。大事なマイクを足蹴にされた藤田はその晩酔っぱらって、大きな身体で「アラカンの奴、ぶん殴ってやる!」と怒り狂い、京都映音の関係者を驚かせた。
 
監督のマキノは藤田をおさえ、「そんなに口惜しいなら、お前も役者になり、立派なスターになってアラカンを見返してやれ」と諭した。そして、この時はとりあえず『活人剣』での仕事が済むと「お前、クビや」と解雇を言い渡した。その後、東宝でスターとなるが、東宝入社までの一時期、藤田は京都千本組の[[笹井末三郎]]の世話で、競馬の予想屋をやって食いつないでいたという<ref>『映画渡世・天の巻 マキノ雅弘伝』([[マキノ雅弘]]、平凡社)</ref>。