「ヨハネス21世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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[[1245年]]から[[1250年]]にかけ、ペドロ・ヒスパノ([[ヒスパニア]]で知られる[[イベリア半島]]出身の為こう呼ばれた)で知られ、[[シエナ大学]]で薬学を教えた。彼はこの地で''Summulae Logicales''を書き、この本は300年以上ヨーロッパ諸国の大学で用いられた。こうして有名な大学講師としてリスボンへ戻り、[[ギマランイス]]の宮廷で[[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]の教会関係の助言者・スポークスマンとなり、ギマランイスの修道院長となった。彼はリスボン司教になろうとしたが、競い負けている。その後リスボンの学校講師となり、[[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]の主治医となった。
 
1276年[[8月18日]]の[[ハドリアヌス5世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス5世]]の死後、ペドロは9月13日に[[コンクラーヴェ]]で教皇に選出された。彼の短い治世は、強力な枢機卿ジョヴァンニ・ガエターノ(ヨハネス21世の後継の教皇、[[ニコラウス3世 (ローマ教皇)|ニコラウス3世]]となる)が代わりに政治を取り仕切っていた。ジョヴァンニは聖地への[[十字軍]]結成の為、[[正教会]]とカトリックの合同とキリスト教国の平和を保とうと努力した。しかし、[[タタール|タタール人]]を改宗させようと働きかけたが、成果はなかった。
 
ヨハネス21世は[[ヴィテルボ]]にある別荘に新たな翼を付けさせた。それは手抜き工事でつくられた為、ある時に彼が就寝していると屋根が崩れ落ち、重傷を負った。そして、事故から8日後の1277年5月20日に死んだ。恐らく、偶発的な事故で死んだ教皇は彼1人である。遺体はヴィテルボのドゥオーモに埋葬された。現在も彼の墓がそこで見られる。死後、『ヨハネス21世は魔法使いであったのだ』と噂が広まった。
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