「ボビー・ジョーンズ (ゴルファー)」の版間の差分

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== 人物 ==
[[ファイル:BobbyJonesAge14.jpg|thumb|100px|left|ボビー・ジョーンズ14歳の頃([[1916年]])]]
その自制心に富むプレー態度から、'''球聖'''(きゅうせい)と呼ばれたゴルフ史を代表する伝説のゴルファー。彼は終生、[[アマチュア]]を貫いたことでも有名である。19歳の時、[[1921年]]6月、19歳で全英オープン(セント・アンドルーズ、予選:エデンコース、本選:オールドコース)に初挑戦して、強風の本選3日目に最初の9ホールで10オーバーの46を叩き、10番ホールもダブルボギー、11番ホール(パー3)もティーショットをバンカーに入れ、脱出に3打で4オン、ダブルボギーパットも外して茫然分を見、6打目のパットを打たずに棄権した。これをジョーンズは終生、痛恨の記憶とした。
 
アマチュアでありながら実力は[[プロゴルファー|プロ]]を上回るほどで[[1930年]]、28歳のときに当時の世界4大タイトルを[[全英アマチュアゴルフ選手権|全英アマ]](セント・アンドルーズ開催、マッチプレイ形式で18ホールの7試合を行った後、36ホールの決勝戦を実施)、[[全英オープン (ゴルフ)|全英オープン]](ロイヤルリバプール)、[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]](インターラッセンカントリークラブ)及び[[全米アマチュアゴルフ選手権|全米アマ]](メリオンゴルフクラブ)の順に優勝し、[[グランドスラム (ゴルフ)|年間グランドスラム]]を達成した。スポーツ界において「[[グランドスラム]]」という言葉が用いられたのはこれが最初とされる。同年、全米アマチュア最高の賞である第1回[[ジェームスサリバン賞]]を受賞し、グランドスラム達成の7週間後、28歳で競技生活から引退した。
 
[[1923年]]に有名な「カラミティ・ジェーン」という名のパターを手に入れ、初のメジャータイトルである全米オープン(インウッドカントリークラブ)を制した。大会前のジョーンズはショット、パットがともに不調で、大会の1週間前にコーチのスチュアート・メイドンに連れられ、ナッソーカントリークラブに立ち寄った。ラウンド後、練習グリーンにいたジョーンズに、スチュアートの兄であり、このゴルフ場所属のプロであるジム・メイドンが自分で製作したヒッコリーシャフトの中央部3カ所にテープが巻かれているパターを手渡した。ジョーンズが打ってみると、実によく入り、早速借用して、翌週の全米オープンに勝利した。翌年、ジョーンズはシャフトにテープを巻いた同じ型のものを作らせ、それを1930年の年間グランドスラムまで愛用、さらに6本同型のコピーを発注した。ジム・メイドンは自分で作ったクラブには必ず名前をつけた。カラミティはゴルフ史家ロバート・ブラウニングの著作「History of Golf」中の文「ショートパットを外したときは最悪のカラミティ(災難)であり、ロングパットを成功させるとカラミティから解放される」から採用、ジェーンは西部開拓時代のヒロインの名前であった。シャフト中央部のテープは、シャフトにひびが入っていたのを修繕するためのものであった。ジョーンズは全英オープンに4度挑戦したが、カラミティ・ジェーンを入手してからの3回はすべて優勝した(1926年ロイヤルリザム&セントアンズ、棄権から6年後のセント・アンドルーズで予選76-71・本選68-72-73-72で2位グループに4打差、1930年)。1930年の全英オープン(年間グランドスラムの2勝目(全英オープン)の後、米国へ帰国する際、ジョーンズはカラミティ・ジェーンも入っていたゴルフバッグをロンドンのホテルに置き忘れたが、無事速やかに手元に戻った。ジョーンズのクラブのヒッコリーシャフトは1000本以上から厳選された物で、このセットを失っていたら、年間グランドスラムはあり得なかったであろう。
 
引退後もゴルフにかかわり、弁護士業務の傍らに[[マスターズ・トーナメント]]の創設やそのマスターズが開催される[[オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ]]のコース設計にも携わった。