「ウラジーミル1世」の版間の差分

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== 前半生 ==
父スヴャトスラフ1世存命中から[[ノヴゴロド公]]に任じられていた。これは、後継者として目されていたためであろう。そして父の死後の[[975年]]に長兄[[ヤロポルク1世|ヤロポルク]]次兄オレーグい、殺害にいたる<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p73]]</ref>、[[977年]]ウラジーミルは[[スカンディナビア]]へ逃亡した。37歳の時<ref>『ルーシ年代記』. 6360年 (852).</ref>、[[ノルマン人]]([[ヴァリャーグ]])人を率いて帰還、ヤロポルクを破り、[[キエフ大公]]として即位した。『[[ルーシ年代記]]』による即位年は[[980年]]であるが、11世紀後半の書『{{lang|uk|[[:uk:Пам'ять і похвала князю Володимиру|Память и похвала князю русскому Володимиру]]}}』によると、[[978年]]となっている<ref>[http://www.golubinski.ru/history/pohvala.html ''Память и похвала князю русскому Володимиру, како крестися Володимир и дети своя крести и всю землю Рускую''], ПВЛ. Год 6360 (852).</ref>。ウラジーミル1世が37歳になったのは[[978年]]であるため、[[980年]]説は成立しない。しかし、多くの書物では[[980年]]説は定説となっている。
 
即位過程で、[[ポロツク公国|ポロツク]]を滅ぼし、公女[[ログネダ]]を略奪して妻とした<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p74]]</ref>。さらに南方や北東地域にも進出してキエフ大公国の領土を父の代から倍増させた。981年にヴャチチ族、984年にラヂミチ族を従属させた<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p75]]</ref>。モスクワの東に位置する[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]の町やヴォルィニ地方のウラジーミルは彼が建設したとされる{{要出典|date=2011年12月}}。
 
[[内政]]においては、ノルマン系の[[ルーシ族]]の植民を奨励する一方で{{要出典|date=2011年12月}}、980年頃、[[ルーシ]]に伝統的な異教信仰を基盤に据えた国制改革を行ったとされる。伝統的なルーシの異教信仰に近隣諸民族の神を加えた大規模な祭祀を行ったが失敗した。こうして、数年後の[[キリスト教]]導入に至る。[[987年]]に10人の家来たちに各宗教を調査させた報告を聞き、また祖母オリガの[[洗礼]]に続き、[[988年]]に彼も洗礼を受けた。そして異教の[[偶像破壊|偶像を破壊]]するよう命じた<ref>[[黒川知文]]『ロシア・キリスト教史』[[教文館]]</ref>。
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== キリスト教導入後 ==
[[ファイル:Zlatnik HQ.jpg|right|170px|thumb|ウラジーミルの金貨(10世紀の肖像と紋章)。]]
[[988年]]には[[キリスト教]]を国教として導入、加えて[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[バシレイオス2世]]の妹[[アンナ (キエフ大公妃)|アンナ]]と結婚し<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p76]]</ref>、キエフ大公国の権威を上昇させると共に、当時最先端であった[[ビザンツ文化]]を取り入れるなど、優れた手腕を見せた。ウラジーミルは[[ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたち|12人の息子]]をキエフ大公国の各地に封じた。近隣との関係はおおむね平穏であったが、[[ペチェネグ人]]には悩まされた。アンナの死後、ウラジーミルは再婚した。相手は[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]の孫娘のひとりであったとする説がある。晩年には、息子[[ヤロスラフ1世]]と対立し、これを討つための準備中にキエフ近郊の[[ベレストヴォ]]で死去した(1015年)。
 
ウラジーミルの遺体は、分割され、彼が建てたさまざまな[[教会]]に送られて[[不朽体]]([[聖遺物]])として崇敬を受けた。キエフの最も[[聖ヴォロディームィル大聖堂|大きな大聖堂のひとつ(聖ヴォロディームィル大聖堂)]]がウラジーミルに捧げられた。ウラジーミルへの崇敬はルーシの伝統となった。19世紀には[[ウクライナ]]における[[キエフ大学]]の正式名称は、キエフ・ルーシに文明とキリスト教をもたらした人物としてウラジーミルの名称を冠している。[[ロシア帝国]]では[[聖ウラジーミル勲章]]が設けられた。ウラジーミルは[[正教会]]から13世紀に列聖され<ref>[http://ruhistory.narod.ru/history/tsar/vlad1.html Vladimir I Svjatoslavich (? - 1015)]</ref>、[[カトリック教会]]でも[[聖人]]として崇敬されている。[[政治]]・[[軍事]]ともに大きな成果を収めたウラジーミル1世の功績は、民族叙事詩である「[[ブィリーナ]]」で、また修道士ヤコフ・ムニフの『頌詞』のなかで賞賛されている。彼と共に、東スラブにおけるヴァリャーグ人時代は終わり、キリスト教時代が始まった。