「スティーブン (イングランド王)」の版間の差分

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[[フランス王国|フランス]]貴族である[[ブロワ家|ブロワ伯]][[エティエンヌ2世 (ブロワ伯)|エティエンヌ2世]]と、イングランド王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]](征服王)の娘アデラの間の息子の一人として生まれた。フランスでの名前は'''エティエンヌ'''('''Etienne''')'''・ド・ブロワ'''である。[[1125年]]、[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]伯[[ウスタシュ3世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ3世]]の娘[[マティルド・ド・ブローニュ|マティルド]](英名マティルダ)と結婚し、ブローニュ伯位を継承した。ブロワ伯は兄ティボー4世([[シャンパーニュ伯]]としては[[ティボー2世 (シャンパーニュ伯)|ティボー2世]])が継承している。
 
母方の叔父であるイングランド王[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]](ウィリアム1世の子)は、一人息子[[ウィリアム・アデリン|ウィリアム]]を[[1119年]]に失い、[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]に嫁いでいた[[マティルダ (神聖ローマ皇后)|マティルダ]](モードは愛称)が唯一の嫡出子となった。そのため、夫と死別したマティルダを[[1125年]]に呼び戻して王位継承者とし、[[1128年]]にはノルマンディーに隣接する[[アンジュー]]伯[[フルク5世]]の息子[[ジョフロワ4世]]と結婚させていた。
 
ところがヘンリー1世が1135年に死ぬと、スティーブンはヘンリー1世の生前の取り決めや先王の臣下たちの意向にもかかわらず、強引に家臣を率いて所領のフランスから[[ロンドン]]に入ると、ロンドン市民と自らの弟・ウィンチェスター司教ヘンリーに[[カンタベリー大司教]]を説得させ、彼らの推戴を受けてイングランド王に即位した(王の宝物庫の管理はウィンチェスター司教が行っていたので、対マティルダ戦の軍資金には事欠かなかった)。