「京極為兼」の版間の差分

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[[弘安]]3年([[1280年]])には東宮煕仁親王(後の[[伏見天皇]])に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して[[京極派]]と称された。伏見天皇が践祚した後は政治家としても活躍したが、[[持明院統]]側公家として皇統の迭立に関与したことから、[[永仁]]6年([[1298年]])に[[佐渡国]]に配流となった。[[嘉元]]元年([[1303年]])に帰京が許されている。[[勅撰和歌集]]の撰者をめぐって二条為世と論争するが、[[院宣]]を得て[[正和]]元年([[1312年]])に『[[玉葉和歌集]]』を撰集している。翌正和2年([[1313年]])、伏見上皇とともに[[出家]]して法号を蓮覚のちに静覚と称した。
 
正和4年([[1315年]])12月28日、得宗身内の東使安東重綱(左衛門入道が上洛し再び[[鎌倉幕府]]軍勢数百人を率いて毘沙門堂邸(上京区毘沙門町)において為兼を召し捕り、[[六波羅探題]]に捕らえられ、おいて拘禁する。翌正和5年([[1316年]])正月12日は得宗が守護、安東氏が守護代であった[[土佐国]]に配流となり、帰京を許されないまま[[河内国]]で没した。2度の流刑の背景には「[[徳政]]」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある。
 
家風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ。『[[玉葉和歌集]]』『[[風雅和歌集]]』に和歌が入集している。
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