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紀元前930年頃に、イスラエルは北のイスラエル王国と南の[[ユダ王国]]に分裂した。イスラエル王国は紀元前722年に[[アッシリア]]の[[サルゴン2世]]に滅ぼされた。もう一つ南のユダ王国は、[[紀元前609年]]の[[メギドの戦い (紀元前609年)|メギドの戦い]]で[[ヨシア]]が、エジプトのファラオ・[[ネコ2世]]に敗死させられ、エジプトの支配下におかれることになる。さらに[[紀元前597年]]には東より攻めてきた[[バビロニア]]の支配下におかれ、[[紀元前587年]]にはそのバビロニアに滅ぼされた。
やがて三大陸の結節点に位置するその軍事上地政学上の重要性から相次いで周辺大国の支配を受け、紀元135年に[[バル・コクバの乱]]を鎮圧した[[ローマ皇帝]][[ハドリアヌス]]は、それまでの[[ユダヤ属州]]名を廃し、属州シリア・パレスチナ ([[:en:Syria Palaestina]]) と改名した。[[ローマ]]としては、幾度も反乱を繰り返すユダヤ民族からアイデンティティを
[[7世紀]]には[[イスラム帝国]]が侵入し、[[シリア]]を支配する勢力と[[エジプト]]を支配する勢力の戦争の舞台となった。[[11世紀]]には[[ヨーロッパ]]から[[十字軍]]が派遣され、[[エルサレム王国]]が建国されるが、[[12世紀]]末には[[アイユーブ朝]]の[[サラーフッディーン]]に奪還され、パレスチナの大半はエジプトを支配する王朝が治めた。[[16世紀]]になると、エジプトの[[マムルーク朝]]を滅ぼした[[オスマン帝国]]がパレスチナの支配者となる。オスマン帝国ではパレスチナはシリアと呼ばれた。
[[19世紀]]以降、ヨーロッパで次々に[[国民国家]]が成立し、各地で民族の自己認識が促されると、ユダヤ人もオスマン帝国領のパレスチナに入植し始めた。
1967年に起こった[[第三次中東戦争]]では、イスラエルがさらに[[ガザ地区]]、[[ヨルダン川西岸地区]]を占領。
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