「マクシム・サブーロフ」の版間の差分

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=== ゴスプラン議長 ===
サブーロフは[[大粛清]]によって古参の[[ボリシェヴィキ]]が消され、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の独裁体制を支えた「出世組」世代に位置した。1937年には重工業担当人民委員、[[1938年]]国家計画委員会(ゴスプラン)機械部門書記を歴任した。[[1940年]]ゴスプラン第一副議長に就任。ソ連経済に関して広範な権限を持つゴスプランの幹部となったことは、その後、要職を歴任する契機となった。[[1941年]]ゴスプラン議長に就任する。この時の議長職は[[1942年]]までの短期間で、後に大粛清の犠牲となった[[ニコライ・ヴォズネセンスキー]]と交代した。その後、[[ソビエト連邦人民委員会議|人民委員会議]]副議長(副首相)や1944年ゴスプラン第一副議長、1946年にはゴスプラン副議長にまで降格されるが、[[1947年]]には副首相となり、[[ソビエト連邦最高会議|ソ連最高会議]]代議員にも選出された。
 
[[1949年]]再びゴスプラン議長に就任する。ゴスプラン議長に再任されたサブーロフは第5次[[五カ年計画]]を統括し、[[第二次世界大戦]]後のソ連経済の再建に当たった。[[1950年]]のソ連における農業生産は[[1940年]]のレベルまで落ち込み、例えば牛乳生産は10万トンを下回り、食肉生産は1万2000トンをわずかに上回る程度となっていた。サブーロフは国家計画委員会の議長としてソ連経済の復興に当たり、石炭生産1200万トン、石油製造3000万トン、電力量約800億kWの生産増加に成功した。[[1952年]]党幹部会員([[政治局員]])に選出された。