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| 子女 = [[スルターン (ムガル皇子)|スルターン]]<br>[[バハードゥル・シャー1世]]<br>[[アーザム・シャー]]<br>[[アクバル (ムガル皇子)|アクバル]] <br>[[カーム・バフシュ]]
| 王家 =
| 王朝 = [[ムガル朝]] ([[ティムール朝]])
| 王室歌 =
| 父親 = [[シャー・ジャハーン]]
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'''アウラングゼーブ'''('''{{lang-fa|اورنگزیب}}''', '''Aurangzēb''' 、[[1618年]][[11月3日]] - [[1707年]][[3月3日]])は、[[北インド]]、[[ムガル帝国]]の第6代[[皇帝]](在位:[[1658年]] - [[1707年]])。第5代皇帝[[シャー・ジャハーン]]の三男。母は[[ムムターズ・マハル]]。'''アーラムギール1世'''('''Ālamgīr I''')とも称される。本名'''ムヒー・ウッディーン・ムハンマド・アウラングゼーブ'''(Muḥī'ud-Dīn Muḥammad Aurangzeb)。
 
アウラングゼーブの治世、帝国の領土は最大となったが、その反面では厳しい宗教政策によって異教徒の離反を招き、死後に帝国は衰退・崩壊した。
 
== 生涯 ==
=== 即位===
アウラングゼーブは若年からデカンの総督としてデカンに派遣されていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p228</ref>。父[[シャー・ジャハーン]]が1657年病床に臥すと、長男[[ダーラー・シコー]]を後継者として指名したが、ここでムガル王朝定番の皇位継承争いがおこった。アウラ<ref>ロビグゼーブは弟の{{仮リク|ムラード・バフシュ|en|Murad Baksh}}と結んでダーラーと第2皇子{{仮リンク|シャー・シュジャー_(ムガル皇子)|en|Shah Shuja (Mughal)|label=シャー・シュジャー}}を倒し帝歴代誌』[[1658年]]までに帝位継承者としての地位を確立したp227</ref>
 
アウラングゼーブは弟の{{仮リンク|ムラード・バフシュ|en|Murad Baksh}}と結んでダーラーと第2皇子{{仮リンク|シャー・シュジャー_(ムガル皇子)|en|Shah Shuja (Mughal)|label=シャー・シュジャー}}を倒し、[[1658年]]までに帝位継承者としての地位を確立した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p229</ref>。そして、2月に皇帝の派遣してきた遠征軍を破ることに成功した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p229</ref>
 
アウラングゼーブはその後、ダーラー・シコーを破り、最終的にとらえることに成功した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p230</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p232</ref>。アウラングゼーブは父がダーラーを偏愛したとして、死刑に処したダーラーの首をシャー・ジャハーンのもとに送り、その箱を晩餐の場で開封させるなど残酷な復讐行為を行った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p233</ref>。そして、協力者であるはずのムラードもダーラーを破ったのちに幽閉し、のち[[1661年]]に殺した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p233</ref>
 
また、父帝を[[タージ・マハル]]の見える[[アーグラ|アーグラ城]]の一室に幽閉して、ダーラーを偏愛したとして恨みの手紙を送ったり、宝石を取り上げたり、[[1666年]]に死ぬまでさまざまないやがらせをした<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p235</ref>
 
===宗教政策と異教徒との争い===
[[File:Shivaji british meusium.jpg|thumb|right|220px|シヴァージー]]
アウラングゼーブは治世の前半、歴代皇帝が行なってきた[[スーフィズム]]の[[チシュティー教団]]による穏健な宗教政策を改めた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』p237</ref>。[[スンナ派]]の教義をもととした[[シャリーア]]に基づく保守反動的な宗教政策となり、ヒンドゥー寺院を破壊するなど、他宗教に厳しい弾圧を行った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p237</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p238</ref>。そのため、[[シーア派]]、[[ヒンドゥー教徒]]、[[ラージプート]]、[[マラーター同盟|マラーター族]]、[[シク教徒]]などの反感を買った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p237</ref>
 
[[1660年]]代から抵抗を始めたマラーターの[[シヴァージー]]の抵抗には、アウラングゼーブは何度も苦慮させられる羽目となり、[[1674年]]にはった。シヴァージーがヒは多数の砦をコドゥー教徒カン地方に持ち、そ[[マ軽騎兵は俊敏で、帝国領グジャラートのス同盟|マーター王国]]を建国するなど、帝国しだい2度分裂わたりそ方向に向かっていっ略奪をうけ<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p241</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p242</ref>
 
[[1674年]]、シヴァージーはヒンドゥー教の儀式に乗っ取り、マラーター王を宣し[[マラーター王国]]を建国した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p242</ref>。こうしてデカンにはヒンドゥー教を奉じる王国が建設され、帝国はしだいに分裂の方向に向かっていった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p242</ref>
[[1679年]]に[[ジズヤ]](非イスラム教徒に課せられた[[人頭税]])を復活させると、ラージプートの一部が反乱を起こした。シヴァージーも抗議の手紙を送って、今ある帝国の繁栄は過去の皇帝の努力によるものだとわからせようとした。
 
[[1679年]]に[[ジズヤ]](非イスラム教徒に課せられた[[人頭税]])を復活させると、ラージプートの一部が反乱を起こした<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p239</ref>。アクバルの代から帝国に仕えてきたラージプート氏族に対し、アウラングゼーブが非礼をとったのも原因であった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p239</ref>。
その内容はこのようなものだった。
 
このとき、シヴァージーも抗議の手紙を送って、今ある帝国の繁栄は過去の皇帝の努力によるものだとわからせようとした<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p241</ref>。彼は「ジズヤを復活したことでティムールの名を汚した」、と厳しい批判を書き連ねている<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p241</ref>。
{{Cquote3|
しかし、陛下の御世には、城塞や地方の多くが陛下のものではなくなり、残りもまもなく同じ運命をたどるでしょう。というのも、我が方には、城塞や地方の破壊に手心を加えるつもりは全くないのですから。
 
帝国農民は圧政に虐げられ、どの村でも収穫が減少しています。収穫が1ラク[10万ルピー]あった場所でわずか1000ルピー、1000ルピーあった場所ではわずか10ルピーというありさまです。しかも、それがひどく骨を折った結果なのです。皇帝や皇子たちの宮殿が極品に陥ったなら、高官や官吏がどのような状態に至るかは、想像に難くはありません。軍が反乱を起こし、商人がぐちをこぼし、イスラーム教徒は泣き叫び、ヒンドゥー教徒は無理難題をふっかけられて苦しみ、大多数の人は夜食べるパンにも事欠き、昼間は[怒りのあまり]自分たちの頬をたたいて真っ赤にする。そんな治世なのです。
 
皇帝ともあろう方が、このような惨状にある者たちに、ジズヤというさらなる辛苦を押しつけることができるものでしょうか。悪評が西から東へ、またたくまに広がって、史記に記されるでしょう。
 
物乞いの器を欲しがるヒンドゥスターンの皇帝は、バラモンやジャイナ教徒、ヨーガ行者、ヒンドゥー教の苦行者サンニャーシーやバイラーギー、貧民、物乞い、破産して悲惨な境遇にある人、饑饉にみまわれ、物乞いの財布を奪いとることが勇気の見せどころとなった人、そんな人々にジズヤを課して、ティムールの名と名誉を汚したと。
}}
 
===デカン戦争===
{{main|{{仮リンク|デカン戦争|en|Deccan Wars}}}}
[[ファイル:Mughals.JPG|300px|right|thumb|ムガル帝国の最大版図(1707年アウラングゼーブ死亡時)]]
1680年にシヴァージーが死に、ラージプートの反乱も制圧すると、1681年からアウラングゼーブはデカンの[[アウランガーバード]]や近郊の城郭都市[[{{仮リンク|アフマドナガル]]|en|Ahmednagar}}(旧{{仮リンク|アフマドナガル王国|en|Ahmadnagar Sultanate}}の都)を拠点に、デカンに大規模な外征を行った(これ以降彼はデカンと南インドで行動し、デリーに戻らなかった)<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p242</ref>。こうして、[[1686年]]に[[ビージャプル王国]]、[[1687年]]に[[ゴールコンダ王国]]を滅ぼし、[[1689年]]には[[マラーター同盟|マラーター王国]]の{{仮リンク|サンバージー|en|Sambhaji}}を殺害し、マラーターを南に追いやり、帝国最大の領土を獲得した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p243</ref>
 
ここで注目すべきなのは、このデカン遠征で戦った帝国軍の兵士や軍司令官さえもが、帝国の民族構成上ほとんどヒンドゥー教徒だったことである<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p40。ここでは最高司令官となっているが、おそらくジャイ・シングのことであろう。</ref>。ヒンドゥー教徒を弾圧していたアウラングゼーブは、実は多数派のヒンドゥー教徒の助力なしには領土を拡大することはできなかったのだ。なんとも矛盾した話である<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p40</ref>
 
当然、この度重なる遠征は財政を悪化させ、重税となって人々の肩にのしかかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p244</ref>
 
===晩年と死===
[[File:Aurangzeb reading the Quran.jpg|230px|thumb|right|晩年のアウラングゼーブ]]
[[1690年]]代になって帝国の各地で重税に苦しむ農民が反乱を起こすようになり、とくにベンガル地方の反乱は大規模だった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p244</ref>
 
アウラングゼーブはそれでもデリーに戻らず、領土の拡大に執念を燃やして、南インドに逃げたマラーターと戦っていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>。[[1700年]]代になるとマラーターの反撃も激しくなったが、それでも彼はマラーターと戦い続けて、ついに[[1705年]]に病気で倒れた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>。アウラングゼーブは回復したが、老齢による衰えは隠せずに、[[1706年]]以降はデカンのアフマドナガルにとどまった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>
 
アウラングゼーブを不安にさせたのが、彼の息子たちの不和で、長男[[バハードゥル・シャー1世|ムアッザム・ハーン]]と三男[[アーザム・ハーン]]、五男[[カーム・バフシュ]]のなかが悪く、かつて自分が帝位を争ったように彼らも争って殺しあうのではないかと思うようになった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>。彼は皇位継承戦争が死後に勃発するのではないかと、日増しに恐れるようになった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>。それを防ぐため、アーザム・ハーンとカーム・バフシュを死ぬ2週間前に別々の地域に送った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>
 
アウラングゼーブ自身もかつての皇帝時代の残酷な政策やデカンへの遠征にたいして次第に後悔するようになったといわれてる<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』p246</ref>。死ぬ数日前にアーザム・ハーンに送った手紙には自身の統治に対して深い後悔の念が記されている。その内容はこうだった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p246より引用、一部改編</ref>
 
アウラングゼーブ自身もかつての皇帝時代の残酷な政策やデカンへの遠征にたいして次第に後悔するようになったといわれ、死ぬ数日前にアーザム・ハーンに送った手紙には自身の統治に対して深い後悔の念が記されている。その内容はこうだった。
{{Cquote3|
'''「そなたとそなたのそばにいる者たちが平穏であるように。(余は)老いて(略)手足から力が去った。余は一人でこの世に来て、よそ者としてあの世に行く。(略)余は臨機応変に統治する才を欠いていた。民の幸福を気にかけることもなかった。余の貴重な人生はむなしく過ぎていった。神はこの世におられるが、余は神を見ていない。(略)[)(帝国軍は混乱に陥っている。(略)それでも、神の恵みと慈悲のおかげで、強い希望は持っている。しかし、自らの行動を振り返ることはできない([すなわち、自分の過去の行動のせいで恐れている])。(略)さらば、さらば、さらば'''
}}
 
このように、晩年のアウラングゼーブは、後悔に満ち溢れながら、[[1707年]]3月アフマドナガルで死亡した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p246</ref>。88歳であった。
 
==死後のムガル帝国==
[[File:Peshwa Baji Rao I riding horse.jpg|thumb|right|230px|{{仮リンク|バージー・ラーオ1世|en|Baji Rao I}}]]
アウラングゼーブの死後、彼の予想通りに息子たちが帝位をめぐって争いはじめ、彼自身の統治、多数の民族・宗教を抱えた政情や帝国の財政難も影響して、帝国領はたちまち分裂、衰退していった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p248</ref>
 
のちに混乱に乗じて帝国を見切ったデカンの[[ニザーム王国]][[アワド太守]][[ベンガル太守]]といった近隣地域が独立、マラーター王国を中心とした[[マラーター同盟]]が強勢となった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』p214</ref>。[[1737年]]にはその宰相{{仮リンク|バージー・ラーオ1世|en|Baji Rao I}}率いる軍勢によってデリーを攻撃され<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215</ref>。アウラングゼーブの没後ちょうど30年目に起きたこのことは、[[マラーター同盟]]の台頭とムガル帝国の衰退をよくあらわしていた。
 
さらには、[[イラン]]の[[アフシャール朝]]がデリーを略奪破壊<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p277</ref>、[[アフガニスタン]]の[[ドゥッラーニー朝]]も帝国領にたびたび侵入し<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p228</ref>、インドの植民地化を目指す[[イギリス]]などの外国勢力も介入してくるなど、帝国は急激に崩壊していった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p263</ref>
 
こうして、アウラングゼーブの没後100年後の[[19世紀]]初頭には、ムガル帝国は首都とその周辺しか支配していなかった。
 
== 人物・評価 ==
[[File:Aurangzeb in old age 2.jpg|thumb|[[コーラン]]を読むアウラングゼーブ]]
アウラングゼーブは[[アクバル]]帝以来ムガル帝国で進められてきたイスラーム教徒と非イスラーム教徒の融和政策と、その結果として一定程度実現された信仰の自由と宗教間の平等を破壊し、[[シャリーア]]の厳格な適用によってイスラームの優位に基づく秩序を復活させた。
 
アウラングゼーブ自身もまた、スンナ派に沿った生き方をし続けた人間であり、彼は質素倹約な暮らしかしなかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p236</ref>。禁欲主義に基づいて、宝石はほとんど身に着けず、値段の安い服を着ていたばかりか、自身の僅かな収入だけで私生活を賄おうとした<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p236</ref>。
 
故にイスラーム復古主義者の間ではアウラングゼーブを「護教者」とする見解が主流だが、現代的な多元主義者は、アウラングゼーブはイスラームの中から[[ムスリム]]と[[ズィンミー]]という二元的関係に基づく「不平等の共存」を越えた真の多元主義が生まれる芽を摘んだという意見をもつだろう。
 
[[パキスタン]]では建国の経緯からイスラーム復古主義と世論の親和性が強く、アウラングゼーブは国民的英雄とされており、[[インド]]で[[アクバル]]が尊敬されているのと対照的である。
 
とはいえ、アウラングゼーブは若いころに一度だけヒンドゥーの踊り子に情熱的な恋をし、音楽といった快楽を求め続けるような生活をしていたことがあった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p236</ref>。歴史家フランシス・ロビンソン曰く、その踊り子が死ぬことさえなければ、そういう快楽に溺れたままであったかもしれないという<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p236</ref>。
 
== 画像 ==
ファイル:Aurangzeb1.jpg|[[剣]]を持つアウラングゼーブ
ファイル:Darbarscene.jpg|黄金の玉座に座り、手に鷹を乗せるアウラングゼーブ
File:Aurangzeb 27.jpg|うつむいてコーランを読むアウラングゼーブ
</gallery>
 
==脚注==
<references/>
 
==参考文献==
 
== 関連項目 ==
{{Commons|Aurangzeb}}
[[ムガル帝国]]
{{Commons|Aurangzeb}}
 
 
{{ムガル皇帝|第6代:1658年 - 1707年}}
9,814

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