「應武篤良」の版間の差分

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|背番号 =
|選手写真ファイル名 = Enomoto and Otake at the 2010 World University Baseball Championship.jpg
|写真のコメント = [[第5回世界大学野球選手権大会]]ではコーチを務めた。手前の監督・[[榎本保]](30番:[[近畿大学体育会硬式野球部|近畿大学]]監督)の後ろ(40番)が應武
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[広島県]][[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[白島 (広島市)|白島]]
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1958|5|12}}
|没年月日 =
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* [[崇徳中学校・高等学校|崇徳高等学校]]
* [[早稲田大学野球部|早稲田大学]]
* [[新日本製住金広畑硬式野球部|新日本製鐵広畑]]
|経歴補足題 = 監督歴
|経歴補足 = <nowiki></nowiki>
* [[市民球団新日鐵住金かずさマジック|新日本製鐵君津]]
* 早稲田大学
|選出国 =
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[[1976年]]、[[崇徳中学校・高等学校|崇徳高校]]3年の時、[[第48回選抜高等学校野球大会]]で全国制覇。[[第58回全国高等学校野球選手権大会]]は3回戦で[[酒井圭一]]を擁した[[海星中学校・高等学校 (長崎県)|海星高校]]に1-0で敗れた。この年の崇徳は、應武([[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]3位)、[[黒田真二]]([[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]1位拒否、のち[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]])、[[山崎隆造]]([[広島東洋カープ|広島]]1位)、[[小川達明]](広島5位)と、同じ高校で1位二人を含む4人の[[1976年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]指名が当時は珍しく話題を呼んだ。
 
應武はドラフト指名を拒否して[[早稲田大学|早大]]に進学。上級生の捕手に[[山倉和博]]・[[金森栄治]]・[[有賀佳弘]]らがいたためなかなか出場機会に恵まれなかったが、4年時に正捕手となった。東京六大学リーグ通算33試合出場、78打数18安打、打率.231、0本塁打、4打点。
 
大学卒業後の[[1981年]]には[[新日本製住金広畑硬式野球部|新日本製鐵広畑]]に入社。卓越したリードで社会人野球界でも評判の名捕手となり、[[1988年]]の[[ソウルオリンピック野球日本代表]]ほか、日本代表選出経験は多数(ちなみにソウルオリンピックで捕手として選出された選手は應武と[[古田敦也]]の2人のみ)。翌[[1989年]]限りで現役を引退。
 
=== 新日鐵君津監督時代 ===
[[1994年]]には新日鐵君津(現[[市民球団新日鐵住金かずさマジック]])監督に就任。「短所を修正するより長所を伸ばす」指導で、新日鐵君津監督就任中には[[日笠雅人]]([[中日ドラゴンズ|中日]])、[[松中信彦]]([[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]])、[[森慎二]]・[[古屋剛]]・[[野田浩輔]]([[埼玉西武ライオンズ|西武]])、[[渡辺俊介]]([[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]])と6人の選手をプロへ送り出し、チームも[[都市対抗野球大会]]の常連となったことから、'''「君津中興の祖」'''と呼ばれた。
 
[[2000年]]シーズンをもって監督の座を[[露無博文]]に譲り勇退。[[新日本製鐵]]の社業に専念しつつ、[[2001年]]の[[第34回IBAFワールドカップ日本代表]]では打撃コーチに就任するほか、高校野球の解説など、常に野球と隣り合わせの日々が続いた。
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2007年秋季リーグの早慶1回戦では、球審の判定を批判した上、報道陣の選手への取材も拒否した。これについては各大学野球部OBから批判が続出したが、謝罪文を提出したことで決着した。
 
2010年のシーズン終了[[第41回明治神宮野球大会]]大学の部で優勝を最後に監督を退任。後任には[[岡村猛]]が就任した。
 
== キャリア・経歴 ==
* [[全日本大学野球選手権大会]]優勝監督
* [[日米大学野球選手権大会]]日本代表コーチ
 
== 著書 ==