「竹刀稽古」の版間の差分

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やがて竹刀稽古が主で形稽古が従となっていき、江戸時代末期([[幕末]])には自由に技をかけ合う[[地稽古]]、[[試合]]稽古が[[流派]]を超えて行なわれるようになった。閉鎖的であった流派が技術習得や試合経験のために門戸を開いたり、諸[[藩]]が[[藩士]]を[[江戸]]の剣術道場([[鏡新明智流]][[士学館]]、[[北辰一刀流]][[玄武館]]、[[神道無念流]][[練兵館]]等)に留学させ、或いはこれらの道場から人材を招き藩の剣術[[師範|師範役]]に任じた。
 
地域や流派によって防具や竹刀の違いは残り続け、同じような道具を使用して同じ[[打突]]部位で試合をするようになると、[[流派]]の違いはあまり関係なくなっていったのは、幕府[[講武所]]を設置した[[安政]]年間になってからだった<ref>「[[月刊武道]]」2013年6月号 164頁の[[福島大学]]教授・中村民雄のコメントより</ref>。

講武所頭取並の[[男谷信友]]は「剣術は剣術と呼称するだけで足りる」と主唱した<ref>[[戸部新十郎]]『明治剣客伝 日本剣豪譚』103頁、[[光文社文庫|光文社]]</ref>。この試合剣術の流れは[[明治時代]]以降[[大日本武徳会]]によって集約され、[[剣道|現代の剣道]]が成立した。
 
== 評価 ==