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[[天保]]元年([[1830年]])、秀氏流川勝家(本家)の10代当主[[川勝広業]]の五男として[[江戸]]に生まれた。[[弘化]]4年([[1847年]])3月5日、実兄[[川勝広時]]の養子となり<ref>天保13年([[1842年]])12月27日、実兄の広時は広氏流川勝家の8代当主として養子に入っていた。</ref>、家督([[丹波国]][[氷上郡]]内700石)を継ぎ、広氏流川勝家の9代当主となった。なお、[[江戸城無血開城]]に際して[[若年寄]]を務めた、本家の12代当主[[川勝広運]]の2歳年下にあたる。
 
[[文久]]3年([[1863年]])2月23日、[[書院番]]兼[[講武所]]砲術教授方出役から[[歩兵頭]]並となった。[[慶応]]元年([[1865年]])12月3日、[[諸大夫]]となり、慶応2年([[1866年]])8月27日に[[外国奉行]]となった。[[小栗忠順]]らが設立に関わった、幕府の[[横浜仏語伝習所]]の所長を務めた。慶応3年([[1867年]])11月、[[徳川昭武]]一行<ref>[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]に参列し、欧州各国(スイス、ベルギー、オランダ、イギリス、イタリア)を歴訪していた。</ref>の補佐のためフランス出張中であった外国奉行[[栗本鋤雲]]に[[大政奉還]]のことを知らせ、これをフランス外務大臣とフランス駐在の各国使臣に急ぎ伝達させた。慶応4年2月6日([[1868年]][[2月28日]])、[[外国事務副総裁]]<ref>慶応3年(1867年)、[[慶応の改革]]が行われ、陸軍・海軍・国内事務・外国事務・会計の各[[総裁]]が置かれた。</ref>に進んで伝習掛、留学生掛を兼ね、同年閏4月5日([[5月26日]])に[[開成所]]総奉行となった。
 
幕府倒壊の際の(機密)外交文書等を集めた『[[川勝家文書]]』は、広道が所蔵していたものである。この史料は日本史籍協会によって[[昭和]]5年([[1930年]])に活字化されている<ref>『川勝家文書』東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年 ISBN 4-13-097657-5</ref>。[[明治維新]]後、[[大阪兵学寮]]の校長を務め、明治7年([[1874年]])に陸軍[[中佐]]兼兵学助に進んだ。新政府は、旧幕臣であっても開明的人材は登用し、挙国的な体制作りに取り組み始めていたことが窺われる。明治21年([[1888年]])9月4日、59歳で没した。