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== 生涯 ==
=== 海軍入隊砲術士官 ===
1891年2月1日[[鳥取県]]西伯郡所子村大字福尾(現[[大山町]])の[[農家]]に生まれる。[[1905年]]年4月鳥取県立米子中学校(現[[鳥取県立米子東高等学校]])に入学。入学当初は貧しく、四里(16キロ)の道を歩いて通学していた。海軍を志したのはなんとなく海にあこがれをもっていたのと「貧乏中学生の進学の道は学資のいらない軍人学校」ということからだった<ref>勝田ヶ丘の人物誌編集委員会(2000年)、169頁。</ref>。1909年9月11日[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に40期生として入校。[[1912年]](明治45年・[[大正]]1年)7月144名中第8番の成績で卒業、少尉候補生。{{#tag:ref|同期には[[宇垣纏]]、[[大西瀧治郎]]、[[山口多聞]]らがいる。|group="注釈"}}
 
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=== 第二航空艦隊長官 ===
1944年6月[[第二航空艦隊]]司令長官。
{{main|台湾沖航空戦}}
1944年6月[[第二航空艦隊]]司令長官。1944年7月23日図上演習で第二航空艦隊は、昼間攻撃、薄暮攻撃、[[T攻撃部隊]]による夜間攻撃の三者を攻撃部署として各種組み合わせによって第1から第4まで定め、状況に応じてそのいづれかを適用する戦法を示した。これは後日、[[第六基地航空部隊]]が規定した戦策に発展したものである。この2航艦が示した作戦実施過程は、索敵の結果以外、作戦指導、戦果報告、損害など[[台湾沖航空戦]]と類似した内容であった。また、次期決戦の主力を自負する2航艦司令部は、たとえ敵来攻方面が[[第三航空艦隊]]の担任要域でも2航艦が全基地航空部隊を統一指揮すべきであり、3航艦は支援に回るべきという思想を持っていた<ref>戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで209-210頁</ref>。
 
マリアナ沖海戦敗北後の1944年6月19日、341空司令[[岡村基春]]大佐は福留と参謀長[[杉本丑衛]]大佐に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長[[伊藤整一]]中将に伝えるとともに、中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p333</ref>。
1944年9月[[T攻撃部隊]]の総合教練において、福留はT攻撃の成立を疑問視しており、T攻撃部隊は決戦の一撃に夜間攻撃で使用し、悪天候下に乗じるのは最後の切り札として決行と表明する。連合艦隊司令長官[[豊田副武]]大将は部隊用法については第二航空艦隊司令長官福留に一任し、不能の時は無理をすることはないと話した。<ref>戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで321頁</ref>。
 
1944年6月[[第二航空艦隊]]司令長官。1944年7月23日図上演習で第二航空艦隊は、昼間攻撃、薄暮攻撃、[[T攻撃部隊]]による夜間攻撃の三者を攻撃部署として各種組み合わせによって第1から第4まで定め、状況に応じてそのいづれかを適用する戦法を示した。これは後日、[[第六基地航空部隊]]が規定した戦策に発展したものである。この2航艦が示した作戦実施過程は、索敵の結果以外、作戦指導、戦果報告、損害など[[台湾沖航空戦]]と類似した内容であった。また、次期決戦の主力を自負する2航艦司令部は、たとえ敵来攻方面が[[第三航空艦隊]]の担任要域でも2航艦が全基地航空部隊を統一指揮すべきであり、3航艦は支援に回るべきという思想を持っていた<ref>戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで209-210頁</ref>。
 
1944年9月[[T攻撃部隊]]の総合教練において、が行われる。福留はT攻撃の成立を疑問視しており、T攻撃部隊は決戦の一撃に夜間攻撃で使用し、悪天候下に乗じるのは最後の切り札として決行と表明する。連合艦隊司令長官[[豊田副武]]大将は部隊用法については第二航空艦隊司令長官福留に一任し、不能の時は無理をすることはないと話した。<ref>戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで321頁</ref>。
 
福留は、1944年10月10日那覇空襲を受けて、T部隊に夜間攻撃を命令するが断念。11日早朝に索敵を行い、正午に機動部隊を発見すると18時30分12日の作戦要領を発令した<ref>戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで620頁</ref>。この発令で12日から台湾沖航空戦が発生し、2航艦は大戦果を報告したが、後に戦果誤認が発覚する。