「観応の擾乱」の版間の差分

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== 正平一統 ==
=== 成立 ===
京から直義派を排除したものの、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸ばしていた。尊氏は直義と南朝の分断を図るため、佐々木導誉らの進言を受けて今度は南朝からの直義・直冬追討の[[綸旨]]を要請するため、南朝に和議を提案した。南朝は、北朝が保持している[[三種の神器]](南朝の後醍醐は以前に北朝に接収された際にはそれは贋物であると主張していた)を渡し、政権を返上することなどを条件とした。明らかに北朝に不利な条件であったが、[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]尊氏は条件を容れて南朝に降伏して綸旨を得る。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]北朝の[[崇光天皇]]や[[皇太子]][[直仁親王]]は廃され、[[関白]][[二条良基]]らも更迭される。また、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「'''正平一統'''」と呼ぶ(後に[[足利義満]]により再度図られた南北朝統一である「[[明徳の和約]]」を、正平一統に合わせて「元中一統」と呼ぶことがある。)。[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]には神器が南朝方に回収された。結局のところ、これは政権の南朝側への無条件返還となった。
 
尊氏は義詮に具体的な交渉を任せたが、南朝側は、北朝の意向により[[天台座主]]や寺社の要職に就いた者などを更迭して南朝方の人物を据えることや、[[建武の新政]]において公家や寺社に与えるため没収された[[地頭]]職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。