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| 所属組織 = {{IJARMY}}
| 軍歴 = 1917 - 1945
| 最終階級 = [[ファイル:帝國陸軍の階級―襟章―中将.svg|40px]] 陸軍[[中将]]
| 指揮 = 第3船舶輸送司令官<br />[[第6飛行師団 (日本軍)|第6飛行師団]]長心得<br />第2野戦根拠地隊司令官<br />阿城重砲兵連隊長
| 部隊 =
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'''稲田 正純'''(いなだ まさずみ、[[1896年]]([[明治]]29年)[[8月27日]] - [[1986年]]([[昭和]]61年)[[1月24日]])は、[[大日本帝国|日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。最終階級は陸軍[[中将]]。
 
== 経歴 ==
[[鳥取県]][[日野郡]]黒坂村(現在の[[日野町 (鳥取県)|日野町]])出身。陸軍三等[[軍医 (日本)|軍医]]・[[稲田清淳]]の二男として生まれる。
 
米子中学校(現在の[[鳥取県立米子東高等学校|米子東高校]])、[[広島陸軍幼年学校|広島陸軍地方幼年学校]]、[[陸軍幼年学校|中央幼年学校]]を経て、[[1917年]]([[大正]]6年)5月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](29期)を卒業、同年12月、[[砲兵]][[少尉]]に任官し[[野砲兵第10連隊]]付となる。[[陸軍砲工学校]]高等科を卒業し、さらに[[1925年]](大正14年)11月、[[陸軍大学校]](37期)を優等で卒業した。
 
[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]付勤務、参謀本部員、[[フランス]]駐在、仏陸大卒業、[[野戦重砲兵第2連隊]][[大隊]]長、陸大教官、参謀本部員(防衛課)、参謀本部作戦課戦争指導班長、[[陸軍省#軍務局|陸軍省軍務局]]軍事課高級課員、参謀本部作戦課長(1939年、[[ノモンハン事件]]当時)、[[陸軍習志野学校]]付、[[阿城区|阿城]]重砲兵連隊長、[[第5軍 (日本軍)|第5軍]][[参謀]]副長などを歴任し、[[1941年]](昭和16年)10月、陸軍[[少将]]に昇進。
 
第5軍参謀長を経て、[[1943年]](昭和18年)2月、[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総参謀副長となるが、[[インパール作戦]]実施に強硬に反対し更迭された。南方軍総司令部付、[[第19軍 (日本軍)|第19軍]]司令部付、第2野戦根拠地隊司令官、[[第6飛行師団 (日本軍)|第6飛行師団]]長心得、[[船舶司令部|第3船舶輸送司令官]]、[[陸軍兵器本廠]]付などを経て、[[1945年]](昭和20年)4月、陸軍中将に進級した。[[第16方面軍 (日本軍)|第16方面軍]]参謀長として九州で[[本土決戦]]に備えていたが[[日本の降伏|終戦]]を迎え、同年11月に[[復員]]した。
 
[[1946年]](昭和21年)8月、[[九州大学生体解剖事件]]及び[[油山事件]]([[油山]]米兵捕虜斬首事件)の[[戦犯者|戦犯]]容疑で[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に入所し、[[1948年]](昭和23年)8月、[[横浜軍事法廷]]で[[BC級戦犯]]として重労働7年の判決を受けたが、[[1951年]](昭和26年)6月に釈放された。
 
1970年(昭和5050頃、ノモンハン事件を執筆しようと考えていた作家の[[司馬遼太郎]]が、文藝春秋の[[半藤一利]]とともに稲田のもとを訪れた。事件当時の参謀本部作戦課長あった稲田は、「とにかく悪いのはみんな関東軍だ。現地が言う事を聞かなかったからあんなことになった。」「国境線のことは関東軍に任せていた。」というような話しかしない。その無責任な態度に司馬遼太郎は、「いくらなんでもあんまりじゃないか。こんな奴が作戦課長だったのかと、心底あきれた。」と半藤に語ったという<ref>『昭和の名将と愚将』文春新書、P178 2008年</ref>1)
 
== 親族 ==
*妻 和子 [[阿部信行]](第36代[[内閣総理大臣]]・陸軍[[大将]])の娘
*兄 [[坂西一良]](陸軍中将)
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
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* [[福川秀樹]]『日本陸軍将官辞典』[[芙蓉書房出版]]、2001年。
* [[外山操]]編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
*1) [[半藤一利]][[保阪正康]]『昭和の名将と愚将』[[文春新書]][[文藝春秋|文藝春秋社 P178 ]]、2008年
 
== 外部リンク ==