「上杉清方」の版間の差分

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== 生涯 ==
越後守護職は兄の朝方・頼方が継承し、三兄の憲実は山内上杉家を継承し[[関東管領]]となっていたため、清方は[[刈羽郡]]鵜川上条の地を領して分家し、上条上杉家を興した。
 
[[永享]]元年([[1428年]])、[[鎌倉公方]][[足利持氏]]が越後守護代[[長尾邦景]]の取り込みを図り、邦景から通報を受けた[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]は清方に対して邦景に協力して持氏に対抗するように命じた[[御教書]]を下している<ref>『満済准后日記』正長2年(永享元年)2月23日条</ref>。永享9年([[1437年]])には[[兵庫頭]]に任じられている<ref>『薩戒記目録』永享9年6月7日条「藤原清方兵庫頭宣下事」</ref>。
 
[[足利持氏]]が自刃し、[[鎌倉公方]]が滅亡した[[永享の乱]]の後、隠遁した憲実によって関東管領と山内上杉家の家督を継承した(なお、関東管領は武蔵守護を兼ねる慣例があったため、同職も譲られた事になる)。室町幕府は憲実への引退を認めず、清方をその代理として位置づけた。一方、山内上杉家の家督に関しては継承を認められ、同家の家臣は「清方被官」として認識されるようになる<ref>『結城戦場記』所収「分捕首注文」</ref>。また、同家家宰の[[長尾忠政]]や武蔵守護代の[[長尾景仲]]も清方の命令を受けて文書の発給や実際の政務を行うようになる。[[結城合戦]]の際には[[上杉持朝]]や[[上杉持房]]・[[上杉教朝]]らと共に軍勢を率いて活躍し、[[結城氏朝]]ら持氏派の残党を討ち取り、持氏の遺児の[[足利春王丸|春王丸]]・[[足利安王丸|安王丸]]らを捕縛し京に護送した(捕縛の功を挙げたのは越後[[守護代]]の[[長尾実景]])。その後、嘉吉2年([[1442年]])5月に憲実が持氏方残党の岩松氏らとの交戦を終えて鎌倉に帰還した後は完全に政務から引退している事から、[[黒田基樹]]は同月以降は、清方が名実ともに関東管領であったとみている。
 
それから間もなく死去した。没年については、『[[続本朝通鑑]]』は文安3年([[1446年]])と伝えるが、文安元年([[1444年]])8月に隠遁して所領を全て清方に譲った筈の憲実が次男・竜春(後の[[上杉房顕|房顕]])の為に[[譲状]]を作成している事や、清方の菩提寺である[[長泉寺 (柏崎市)|長泉寺]]が文安2年([[1445年]])に創建されている事から、文安元年に清方が死去して山内上杉家の家督は再び空白となっていたとみられている。また、死因については[[越中国|越中]]において自刃したという説がある(『上杉略譜』)が、それを裏付ける根拠はない。