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[[ファイル:Attalos-I.jpg|thumb|200px|[[ベルリン]]の[[ペルガモン博物館]]にあるアッタロス1世の彫刻]]
'''アッタロス1世'''({{lang-grc|Άτταλος Α΄}}、[[ラテン文字]]転写:'''Attalos I'''、[[紀元前269年]] - [[紀元前197年]])は、[[アッタロス朝|アッタロス朝]](ペルガモン王国]]の第2代国王(在位:[[紀元前241年]] - 紀元前197年)。'''救済王'''('''ソテル''')と称した。
 
== 概要 ==
[[エウメネス1世]]の跡継ぎとして幼少の頃から父に従軍。母は[[セレウコス朝]]の王女。[[ガラティア人]]の攻撃を撃退し王位に就いた。当時セレウコス朝とは領土問題からたびたび戦争が発生していたが、[[紀元前226年]]までにアンティオコス・ヒエラックスを3度破り、[[アナトリア]]地方のほぼ全土を手中に収めた。この頃から王国の危機を救ったと自認し、ソテルと称するようになった。しかし征服したアナトリア地方は、紀元前222年までにほとんど全てがセレウコス朝に再奪還された。
 
西方では、[[マケドニア王国]]の[[フィリッポス5世]]と領土問題で対立した。そのため、[[アイトリア人]]を援助した他、ローマと同盟を結び、マケドニアの背後を脅かした。[[ハンニバル]]率いる[[カルタゴ]]をマケドニアが援助したことから[[{{仮リンク|第一次マケドニア戦争]]|en|First Macedonian War}}が始まると、同盟を理由に戦争に参加した。この戦争では大きな戦果をあげることが出来なかったが、続いて起こった{{仮リンク|2次マケドニア戦争|en|Second Macedonian War}}にも同様に参戦し、勝利を目前にしたところで病死した。
 
彼は文学、哲学、芸術などを奨励し、これは以後のペルガモン文化の礎となった。
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{{先代次代|[[アッタロス朝|ペルガモン]]の君主|紀元前241年 - 紀元前197年|[[エウメネス1世]]|[[エウメネス2世]]}}
 
{{DEFAULTSORT:あつたろす1}}
[[Category:ペルガモン王アッタロス朝の君主]]
[[category:紀元前269年生]]
[[category:紀元前197年没]]