「清水国明」の版間の差分

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「あのねのね」時代は台本を書き、芸でも原田をリードする立場だった。あのねのね時代はラジオで[[下ネタ]]を連発したり[[放送コード]]を超えた卑猥な歌を歌っていたが、後述のように1990年代にアウトドアの旗手としてファミリー層から持ち上げられるようになってからは、[[ものまね王座決定戦]]で[[清水アキラ]]が下ネタを連発した際にとがめる場面を見せるなど芸風が様変わりしていた (ただし、アキラを一時期自らの事務所に所属させ3度目の結婚の際にはアキラが司会をするなど両者の親交は深い)。
 
1982年に担当していたラジオ番組[[真夜中ギンギラ大放送]]でリスナーからの一枚のハガキから話が膨らみ、[[鈴鹿8時間耐久ロードレース]](8耐)に出場を宣言。当時、レースはおろかバイクの免許さえ持っていなかったが、一念発起して二輪免許を取得。自身のサポートクラブ的団体である國武舞レーシングチームを主宰しバイク業界で精力的に活動を始める。[[1983年]]には8耐の登竜門的レースである鈴鹿4時間耐久レースに出場、決勝2020位で完走を果たす。[[1985年]]まで4耐に出場。その後、8耐出場に必要な国際A級ライセンスを取得し、[[1990年]]、元世界GP[[ライダー]]の[[福田照男]]とペアを組み8耐に初参戦。予選で鎖骨を骨折するトラブルに見舞われながらも見事完走を果たした。そして、これをもってレース界からの引退を宣言する。
 
90年代からはアウトドア志向の活動を多く行うようになった。自らチェンソーを握り、木を伐採し、ログハウスを建築する様子がテレビなどを通じて流され、以降、アウトドア派、DIY派のイメージが定着した。