「エドマンド・スペンサー」の版間の差分

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少年期、[[ロンドン]]のマーチャント・テイラーズ・スクール([[:en:Merchant Taylors' School, Northwood|en:Merchant Taylors' School]])で学んだスペンサーは、[[ケンブリッジ大学]][[ペンブルック・カレッジ]]に奨学生として入学を許可された<ref>[http://www.english.cam.ac.uk/spenser/biography.htm The Edmund Spenser Home Page: Biography<!-- Bot generated title -->]</ref>。
 
1570年代、スペンサーはアイルランドに行くが、おそらく新しく赴任した[[アイルランド総督]]([[:en:Lord Deputy of Ireland(ロード・デピュティ)|en:Lordアイルランド総督(Lord Deputy of IrelandIreland)]]アーサー・グレイ([[:en:Arthur Grey, 14th Baron Grey de Wilton|en:Arthur Grey]])に仕えていたものと思われる。1579年から1580年に起こった二度目の[[デズモンドの反乱]]([[:en:Second Desmond Rebellion|en:Second Desmond Rebellion]])では、スペンサーはイングランド軍に加わって戦った。反乱の制圧後、テューダー朝のアイルランド再征服([[:en:Tudor re-conquest of Ireland|en:Tudor re-conquest of Ireland]])があり、スペンサーはマンスター植民([[:en:Plantations of Ireland#The Munster Plantatio|en:The Munster Plantatio]])で没収された[[コーク州]]の土地を与えられた。同じ地域には[[ウォルター・ローリー]]もいた。
 
スペンサーは自作の詩で宮廷での地位を得ることを希望し『妖精の女王』を届けようと、ローリーに同伴して宮廷を訪れた。しかし大胆にも女王の第一秘書バーリー男爵[[ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)|ウィリアム・セシル]]を敵に回したため、彼が作品の報償として得たのは[[1591年]]の年金だけだった。その[[叙事詩]]に対して100ポンドの報償が提案された時、バーリー男爵は「たかが歌一つにそこまでするのか!」と言った。<!--この箇所、英語版は正しいのでしょうか???-->
 
1590年代初期に、スペンサーは『A View of the Present State of Ireland(アイルランドの現状に対する見解)』と題された散文の小論文を書いた。これは[[17世紀]]中頃に印刷物として出版されるまで手書きのままだった。スペンサーが生存中に印刷されなかったのは、たぶんその扇動的な内容が理由だろう。この小論文の主張は、固有の言語や習慣が暴力によって破壊されるまでアイルランドがイングランドに完全に制圧されることはないだろうというものだった。<!--スペンサーは、デズモンドの反乱で使われた飢饉を引き起こす[[焦土作戦]]を奨励した。スペンサーによって提唱されたパラドックスは、法の支配を越えた方法だけが、真の法の支配の確立を創造する前提たりうるということだった。それは論争的な散文作品と見なされてきたが、[[16世紀]]アイルランドの歴史的文献として価値がある。その「意見」は、今日の視点から見れば、[[ジェノサイド]]的である。スペンサーは[[ゲール語]]の詩の伝統をある程度賞賛していたが、アイルランド人は野蛮な[[スキタイ]]の血筋を引くと説明するために、はなはだ偏向した偽の分析を用いた。-->
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