「トイトブルク森の戦い」の版間の差分

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ローマ軍が分け入った「トイトブルクの森」は、道も細く、辺りは[[沼沢地]]であった。さらに、天候は激しい嵐となっており、行軍するローマ軍の隊形は乱れ、組織的な行動ができなくなっていた。アルミニウスはローマ軍との正面衝突を避けて、軍を森の中に兵を潜めると共にローマ軍への[[ゲリラ戦]]を仕掛けた。このような待ち伏せ攻撃は連日、繰り返し行われた。それでもローマ軍は一歩も引かなかったが、雨とともに続く襲撃によって一方的に殺戮され、およそ2万人のローマ軍兵士が死亡、ウァルスは自決した。
 
この敗北を聞いた皇帝[[アウグストゥス]]は、'''「ウァルスよ、我が軍団を返せ!」'''(''Quintili Vare, legiones redde!'')と叫んだといわれている。当時のローマ軍は国境線防衛に必要な数以上の常備軍を備えておらず、ウァルスの敗北はライン方面の軍団が消滅したことを意味した。このためウァルスの軍団の後背地にあたる[[ガリア]]はゲルマン人侵攻の恐怖に包まれたといわれ、アウグストゥスは暴動が起こらないように戒厳令を実施した上で、各属州総督の任期を延長した<ref>[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]「皇帝伝」アウグストゥス23</ref>。
 
== 影響 ==
[[10年]]、ゲルマニア総督として[[ティベリウス]]が派遣され、ガリアへのゲルマン人の脅威は退けられたものの、トイトブルク森での敗北後に[[ゲルマニクス]]による再度のゲルマニア遠征({{仮リンク|ヴェーザー川の戦い|en|Battle of the Weser River}})が成功すると、ゲルマニクスの凱旋式でローマが沸き返る中、ティベリウスは目立たないようにライン川まで退くという巧妙な政治的決定を実行した。この結果、[[アウグストゥス]]の構想であった[[エルベ川]]を[[リーメス]]とする計画は頓挫した。ライン川をリーメスとし、それ以東のゲルマニアへと領土を拡大しようとする意図も失われた。なお、この境界は[[ロマンス語]]と[[ゲルマン語]]の分岐点となり、後には[[フランス]]と[[ドイツ]]の国境ともなった。
<!--ローマ軍の生存者がなかったため、この戦いに関する同時代の記録はほとんどすべて噂や風聞であると考えられている{{要出典}}。-->
 
==デトモルトの記念碑==