「岩本信一」の版間の差分

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鯉城園の主力選手は、この後[[東京カッブス|東京カブス]]と合流し[[国民野球連盟|国民リーグ]]に参加したが、岩本は翌[[1947年]]、[[鶴岡一人]](山本一人)が[[選手兼任監督]]だった[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]に入団。[[野球の背番号|背番号]]'''7'''。先発の一角として活躍し、[[1948年]]は3[[完封]]を含む8勝を挙げ、南海2度目の優勝に貢献した。[[マウンド]]でバッターに「奥さん、お元気ですか!」などと大きな声をかけ「エイ!」と投げる喋るピッチャーであったという。
 
また[[1948年]]、[[別所引き抜き事件|別所引抜き問題]]で遺恨のあった[[読売ジャイアンツ|巨人]]-南海戦、[[4月14日]]に起こった有名な"[[三原ポカリ事件"]]があった試合の先発投手でもあった。この試合、巨人打線を抑え[[リリーフ|救援]]の[[中谷信夫]]に後を託して、風呂に入っていた岩本は事件が起こった9回表、「乱闘だ!」と聞いて「よっしゃぁ!」とパンツも穿かずに風呂を飛び出しグラウンドに出ようとした熱い男でもあった。
 
[[1950年]]、2リーグ分裂で新設された[[横浜ベイスターズ|大洋ホエールズ]]に移籍。[[横浜ベイスターズ|大洋・横浜球団]]の初代背番号'''1'''。先発の一角として7勝を挙げた。さらに翌[[1951年]][[松竹ロビンス]]に移籍して同年引退した。