「ボビー・ジョーンズ (ゴルファー)」の版間の差分

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アマチュアでありながら実力は[[プロゴルファー|プロ]]を上回るほどで[[1930年]]、28歳のときに当時の世界4大タイトルを[[全英アマチュアゴルフ選手権|全英アマ]](セント・アンドルーズ開催、マッチプレイ形式で18ホールの7試合を行った後、36ホールの決勝戦を実施)、[[全英オープン (ゴルフ)|全英オープン]](ロイヤルリバプール)、[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]](インターラッセンカントリークラブ)及び[[全米アマチュアゴルフ選手権|全米アマ]](メリオンゴルフクラブ)の順に優勝し、[[グランドスラム (ゴルフ)|年間グランドスラム]]を達成した。スポーツ界において「[[グランドスラム]]」という言葉が用いられたのはこれが最初とされる。同年、全米アマチュア最高の賞である第1回[[ジェームスサリバン賞]]を受賞し、年間グランドスラム達成の7週間後、28歳で競技生活から引退した。
 
[[1923年]]に有名な「カラミティ・ジェーン」という名のパターを手に入れ、初のメジャータイトルである全米オープン(インウッドカントリークラブ)を制した。大会前のジョーンズはショット、パットがともに不調で、大会の1週間前にコーチのスチュアート・メイドンに連れられ、ナッソーカントリークラブに立ち寄った。ラウンド後、練習グリーンにいたジョーンズに、スチュアートの兄であり、このゴルフ場所属のプロであるジム・メイドンが自分で製作したヒッコリーシャフトの中央部3カ所にテープが巻かれているパターを手渡した。ジョーンズが打ってみると、実によく入り、早速借用して、翌週の全米オープンに勝利した。翌年、ジョーンズはシャフトにテープを巻いた同じ型のものを作らせ、それを1930年の年間グランドスラムまで愛用、さらに6本同型のコピーを発注した。ジム・メイドンは自分で作ったクラブには必ず名前をつけた。カラミティはゴルフ史家ロバート・ブラウニングの著作「History of Golf」中の文「ショートパットを外したときは最悪のカラミティ(災難)であり、ロングパットを成功させるとカラミティから解放さ最も離れる」から採用、ジェーンは西部開拓時代のヒロインの名前であった。シャフト中央部のテープは、シャフトにひびが入っていたのを修繕するためのものであった。ジョーンズは全英オープンに計4度挑戦したが、カラミティ・ジェーンを入手してからは3戦全勝であった(24歳で臨んだ[[1926年]]の予選はサニングデールゴルフクラブのオールドコースで33ショット33パット、アウト33イン33の66を記録して突破、本選は全英初開催のロイヤルリザム&セントアンズで72-72-73-74の291で2位に2打差で英国メジャー初優勝。[[1927年]]は棄権から6年後のセント・アンドルーズで予選76-71・本選68-72-73-72の285で2位グループに6打差での優勝であり、[[1955年]]に[[ピーター・トムソン]]が281で優勝して更新するまで全英オープンコースレコードであった。1930年は年間グランドスラムの2勝目)。1930年の全英オープン後、米国へ帰国する際、ジョーンズはカラミティ・ジェーンも入っていたゴルフバッグをロンドンのホテルに置き忘れたが、無事速やかに手元に戻った。ジョーンズのクラブのヒッコリーシャフトは1000本以上から厳選された物で、このセットを失っていたら、年間グランドスラムはあり得なかったであろう。
 
引退後もゴルフにかかわり、弁護士業務の傍らに[[マスターズ・トーナメント]]の創設やそのマスターズが開催される[[オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ]]のコース設計にも携わった。
 
競技ゴルフの使用クラブ数の決定にも関与した。例えば、[[1934年]]、[[1935年]]に全英アマと全米アマを連続制覇した[[ローソン・リトル]]は31本使用し、これに対しイギリス人キャディが「重すぎる」とクレームして、クラブの本数制限の議論が活発化した。これに対し、[[1936年]]ウォーカーカップが開催されたパインバレーゴルフクラブの駐車場のロールスロイス車中でジョーンズ(アメリカ代表)と[[トニー・トーランス]](イギリス代表、ウォーカーカップ5回出場)が会談した。ジョーンズが年間グランドスラム時に使用したクラブの本数は16本、トーランスが使用したクラブの本数は最多12本で、ジョーンズが「中間をとって14本にしよう」とトーランスに告げ、それをトーランスがそれをR&Aルール委員長の[[ロバート・ハリス]]に伝え、これが1939年制定の規定へつながったという。
 
また、競技ゴルフを止めて6年ほど経ち、[[セント・アンドルーズ]]でプライベートに友人とプレーをしている時に、それを聞きつけた近所の住民 2,000人ほどが彼を一目見ようとコースに集まってきたというエピソードがある。後に車椅子生活を強いられるようになった時に、「セント・アンドルーズでの経験さえあれば、たとえ生涯で得た他の全てのものを失っても、私の生涯は本当に満たされている。」と後日談を語っている。