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'''レ
▲'''レーオポルト・フォン・アンハルト=ケーテン'''('''Leopold von Anhalt-Köthen''', [[1694年]][[11月29日]]、[[ケーテン]] - [[1728年]][[11月19日]]、同地)は、[[アスカーニエン家]]の人物で[[アンハルト=ケーテン]]侯(在位:[[1704年]] - 1728年)。[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]を支持し、バッハとは生涯を通じて交友をもった。
== 生涯 ==
=== 家族 ===
レ
=== 幼少期 ===
父は1704年に早世したため、母が当時10歳のレ
=== グランドツアー ===
1710年[[10月9日]]、レ
レ
それから[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]、[[アウクスブルク]]をまわってイタリアへと移動した。[[ヴェネツィア]]ではオペラをよく鑑賞し、レ
[[1713年]][[4月17日]]、レ
=== 統治時代 ===
[[1715年]][[11月30日]]、レ
親政を始めた22歳のレ
音楽への関心を持つ若き侯爵のおかげで(彼はオーケストラで時折みずからヴァイオリンを手にした)ケーテン時代はヨーハン・ゼバスティアン・バッハにとって最も実り多き時代となった。この地で数多くの器楽曲、協奏曲、『[[ブランデンブルク協奏曲]]』の大部分、『[[平均律クラヴィーア曲集]]』第1巻、そして多くの[[管弦楽組曲]]が誕生した。レ
その後ニーエンブルクの母やヴァルムスドルフにいるアウグスト・ルートヴィヒとの間で繰り返し争いを抱えた。したがって[[1718年]](または[[1719年]])、レ
1721年12月、レ
1728年[[12月17日]]、レ
1729年3月23日、レ
== 業績 ==
アンハルト=ケーテン侯領で1714年に新しく創設された宮廷楽団は、まずシュトリッカーの下、それからバッハの下で活動し、重要な文化的蓄積をなした。バッハの世俗音楽の大部分はケーテン時代の創作期に負っている。さらに1718年、アウグスト・ルートヴィヒと共に宮廷図書館を''Bibliotheque publique''として新たに設立している。もっとも最初は蔵書190冊と、その規模は控えめなものであった。1724年にはケーテン宮殿庭園をバロック様式に作り変え、大規模な栽培温室とそれを収容する見事な建物が立てられた。
レ
{{先代次代|アンハルト=ケーテン侯|1704年 - 1728年|[[エマヌエル・レープレヒト (アンハルト=ケーテン侯)|エマヌエル・レープレヒト]]|[[アウグスト・ルートヴィヒ (アンハルト=ケーテン侯)|アウグスト・ルートヴィヒ]]}}
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[[Category:クラシック音楽史の人物]]
[[Category:アンハルト=ケーテン侯]]
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