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{{要概要|date=2013年6月7日 (金) 11:13 (UTC)}}
{{出典の明記|date=2013年6月7日 (金) 04:12 (UTC)|ソートキー=人1960年没}}
'''マルキャン・ボリシコ'''('''{{Lang|uk|Маркіян Боришко}}''', [[1885年|1885]]/[[1888年|88]]年 - [[1960年]][[11月15日]])は、[[横綱帝政ロシア]]時代の[[大鵬幸喜|大鵬ウクライナ]]東部[[ハルキウ州]]出身[[サハリン州]]([[樺太]])に在住したウクライナ系ロシア人]]である。戦後、元[[横綱]][[大鵬と別れた幸喜|大鵬]]の[[父]]
 
== 人物・生涯 ==
サハリン州連邦保安局や州古文書館の資料によると、マルキャンは[[1885年]]か[[1888年]]、ウクライナ東部のハルキウ州ザチピーロフカ地区ルノフシナ村に生まれた。[[ロシア帝国]]による[[極東]]移住の呼びかけに応じた農民の両親とともに、樺太に入植した。[[1917年]]に[[ロシア革命]]が起こると、北樺太は[[アレクサンドル・クラスノシチョーコフ]]の[[極東共和国]]に組み込まれた。[[1918年]]に北部の州都[[アレクサンドロフスク市]]のロシア移民の未亡人と結婚して一女をもうけた。その後、極東共和国が消滅し北樺太の[[社会主義]]化が進むと、革命政権を嫌って[[1925年]]にマルキャンは単身で日本治政下の南樺太の[[大泊町|大泊]](現:[[コルサコフ (サハリン州)|コルサコフ]])へ亡命した。
大鵬幸喜こと納谷幸喜は、[[樺太]][[敷香郡]][[敷香町]]の出身だが、父のマルキャンが[[外国人居留地]]に[[強制収容]]されて家族と引き離されたために生き別れとなり、その後の父マルキャンの消息は分からなくなっていた。[[2001年]]になり、樺太の日本研究家によって樺太の文書や関係者の証言が確認され、マルキャンの生涯が明らかになった。
 
[[1917年]]に[[ロシア革命]]が起こると、北樺太は[[アレクサンドル・クラスノシチョーコフ]]の[[極東共和国]]に組み込まれた。その後、極東共和国が消滅し北樺太の[[社会主義]]化が進むと、[[1925年]]マルキャンは単身で日本治政下の南樺太の[[大泊町|大泊]](現:[[コルサコフ (サハリン州)|コルサコフ]])へ亡命した。[[1928年]]、洋裁店勤務の'''納谷キヨ'''([[後志支庁|後志管内]][[神恵内村]]出身)と結婚し、翌年から敷香で[[牧場]]を経営した。マルキャンは多くの[[日本人]]・[[白系ロシア人]]を雇い、肉や乳製品を卸して成功し、南樺太では知られた名士だった。
[[サハリン州]]連邦保安局や州古文書館の資料によると、マルキャンは[[1885年]]か[[1888年]]、[[ウクライナ]]東部の[[ハルキウ州]]ザチピーロフカ地区ルノフシナ村に生まれた。[[ロシア帝国]]による[[極東]]移住の呼びかけに応じた農民の両親とともに、樺太に入植した。
 
1940年(昭和15年)5月29日に[[敷香郡]][[敷香町]]で幸喜が生まれた。
[[1917年]]に[[ロシア革命]]が起こると、北樺太は[[アレクサンドル・クラスノシチョーコフ]]の[[極東共和国]]に組み込まれた。その後、極東共和国が消滅し北樺太の[[社会主義]]化が進むと、[[1925年]]マルキャンは単身で日本治政下の南樺太の[[大泊町|大泊]](現:[[コルサコフ (サハリン州)|コルサコフ]])へ亡命した。[[1928年]]、洋裁店勤務の'''納谷キヨ'''([[後志支庁|後志管内]][[神恵内村]]出身)と結婚し、翌年から敷香で[[牧場]]を経営した。マルキャンは多くの[[日本人]]・[[白系ロシア人]]を雇い、肉や乳製品を卸して成功し、南樺太では知られた名士だった。
 
南樺太には[[日露戦争ロシア革命]]以来、白系とされた[[ウクライナ人|ウクライナ系]]・[[ポーランド人|ポーランド系]]の住民がソヴィエト政府による弾圧を逃れて居住しておりいたが日本政府は1944年、戦況の悪化により[[樺太庁]]の指示でこれらの住民を美喜内村の[[外国人居留地]]に移送した。マルキャンも一人居留地に移され、[[1945年]]8月に船で北海道へ引き揚げた家族との連絡は絶たれた。陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、約2,0002000人の民間人が死亡し、亡命していた白系ロシア人も多く死傷し犠牲となった。
 
第二次世界大戦後、南樺太をソ連が実効支配するようになってからは、北海道を中心とした日本政府統治地域に再亡命する白系ロシア人も多かったが、名士だ外国とのつながりのあったマルキャンは[[大泊]]でソ連当局に逮捕され、[[1949年]]、反ソ宣伝を理由に自由剥奪10年の刑に処せられ[[強制収容]]された。[[1954年]]にようやく恩赦を認められて解放され出獄した。その後、サハリン州立博物館の守衛を務めたが、1960年11月15日、[[肺炎]]のため[[ユジノサハリンスク]]([[豊原市]])で死去した。奇しくも息子イヴァーン(日本名:[[大鵬幸喜|幸喜]]、四股名:大鵬)が幕内、入幕6場所目、関脇の地位で、初優勝する昭和35年11月場所中のことだった。
 
1989年、スターリン時代に無実の罪でサハリンで捕らえられて強制収容された人々がゴルバチョフにより公式に名誉回復された。
 
2001年、サハリン州の日本研究家によってマルキャン・ボリシコの生涯が明らかになり、ウクライナのハルキウ市に大鵬記念館が建設された。息子の大鵬幸喜によるハリキフでの相撲大会の企画や、日本とウクライナの国際交流の舞台となっている。
 
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.tvtaiho-asahiyokozuna.co.jpcom/mother/contents/100/201profile/index.html 大鵬幸喜の母] - [[グレプロフィトマザー物語]]公式サイト
 
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{{DEFAULTSORT:ほりしこ まるきやん}}
[[Category:ハルキクライナ出身の人物]]
[[Category:1960年没]]
[[Category:敷香町]]