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;日本人と洋服
戦国時代、日本人は和服を着ていたわけであるが、キリスト教の[[宣教師]]たちが日本にいたので彼らの服装を目にする日本人もいた。[[織田信長]]は西欧の服や鎧を着ることも好んだことが知られている。江戸時代日本は鎖国政策を敷き西洋人を遠ざけたので、人々は基本的には洋服を目にすることはなかったが、[[出島]]に出這入りすることが許された人は、[[ポルトガル人]]や[[オランダ人]]などが着ているものを目にすることができた。最後の将軍 [[徳川慶喜]]は普段ふだん和服を着ていたが、ナポレオン3世から贈られた司令官服(将軍服)のようなものを着用した写真が残っている。[[幕末]]や[[明治維新]]と呼ばれる時期、幕府側は和服を着ている人が多かったが、[[土方歳三]]は洋服をきた写真が残されている。長州勢の軍人は西洋風の軍服を着ていた。[[明治政府]]は西洋化策をとり、その一環として洋服の着用を奨励した。が、日本人全体を見れば[[和服]]を着用している人々のほうが圧倒的に多かった。自宅であれ仕事場であれ和服を着ている人のほうが多かったのである。また政府・行政の官職についていた人も職場では洋服を着用していても、自宅に戻ると従来どおり和服を着て過ごす人のほうが多かった。軍隊は戦力強化のために西洋の軍隊の制度を大いにとりいれ、そのとともに服も洋服採用した。徴兵によって男子に軍服を強制的に着せたことで洋服に慣れる人が増えたという面がある。[[日露戦争]]時も軍人・兵隊は皆 仕事をしている時、洋服を着ていた。
 
太平洋戦争([[第二次世界大戦]])になると、男性は普段も(西洋風の)軍服を着用した。同大戦で日本が敗れ、普段も洋服を着用することが増えた。[[第二次世界大戦]]中に、[[婦人]]が着用を義務付けられた和服の[[もんぺ]]の機能性の悪さが認識されたことと、[[戦後混乱期]]に衣料市場が空白になり、そこに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の援助物資の洋服が流入したことが原因である。進駐軍が登場すると、日本でアメリカ風の文化が広がったことも影響している。<ref>それでも、[[1960年代]]までは男性の家庭でのくつろぎ着としての甚平などの着用は珍しいものではなかった。</ref>
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現代では、西洋文明と対等の権利を主張する[[中東]]諸国や、独自[[文化]]の維持を[[政策]]にする[[ブータン]]を除き、ほとんどの国で民族衣装は普段着としての地位を失っている。ビジネスマンの衣服として普遍的になった[[背広]]は、[[夏]]でも20度を越えることがあまりない[[西岸海洋性気候]]に合わせた衣装であり、蒸し暑い夏の[[日本]]や[[熱帯]]諸国で着用を普遍化するのは無理があるため、[[アロハシャツ]]など熱帯に対応した洋服が略礼服として採用されるケースもある([[かりゆしウェア]])。
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== 洋服の例 ==