「ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチ」の版間の差分
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==生涯==
1100年、ヴィティチフ諸公会議[[:ru:Съезд в Уветичах|(ru)]]で、ヴォルィーニ公ダヴィド[[:ru:Давыд Игоревич|(ru)]]の領土の剥奪{{refnest|group="注"|ダヴィドは政敵の[[ヴァシリコ
[[1102年]]に、ヤロスラフが[[ノヴゴロド公]]へ移り、[[ウラジーミル・モノマフ]]の長男の[[ムスチスラフ1世|ムスチスラフ]](当時ノヴゴロド公)をヴォルィーニ公とするという協定を、ウラジーミル・モノマフと結んだ。しかし[[ノヴゴロド]]の人々が、これに難色を示したため、ヤロスラフがノヴゴロド公となることはなかった。
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