「于山国」の版間の差分

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=== 解説 ===
このようにして、[[6世紀]]に于山国が新羅の属国となったことがたとえ史実であるとしても、新羅が于山国を直接支配しているわけではないことがうかがえる。また、『三国史記』編纂時期より500年も前のできごととして記されており、「獅子の像に、恐れ慄きすぐに降伏した」などの記述は史実というよりは、創作の可能性が高い。さらに、現代の地理にあてはめると、「別名を鬱陵島という」ことだけが唯一の情報であり、竹島(独島)を含むとは書いていないところから、[[竹島問題外交交渉史|竹島問題]]において、韓国側の主張は必ずしも充分な説得力をもつには至っていない。
 
== 『東国輿地志』にみえる于山 ==
[[李氏朝鮮]]の[[柳馨遠]]による『東国輿地志』(1656年)によれば、
{{quotation|『東国輿地志』巻之七 江原道 蔚珍
于山島 欝陵島<br />
一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空 南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵 本一島 地方百里
}}
 
とある。
 
== 「于山」関連の朝鮮の古地図 ==
<gallery widths="240px" heights="240px" perrow="4" caption=于山>
ファイル:Ulleungdo and Usando.jpg|『新増東国輿地勝覧』(1530)「朝鮮八道総図」(部分)
ファイル:Gwang Yeodo 18th century.jpg|『廣輿圖』(1737-1776)鬱陵島の東側に"所謂于山"と示される小島が確認できる
ファイル:DaedongyeojidoUlleungdo.png|[[金正浩]]『[[大東輿地図]]』(1861、部分(鬱陵島とその周辺))
fileファイル:East of Ulleungdo and Usando.jpg|金正浩『大東輿地図』(1861、部分(于山島および鬱陵島東部))
fileファイル:DaehanJeondo.jpg|官撰『大韓地誌』(1899)「大韓全図」(部分)
</gallery>