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== 来歴 ==
=== 初期(1968–1970)===
[[1969年]]、ファースト・アルバム『[[モンスター・ムー
▲[[1969年]]、ファースト・アルバム『モンスター・ムービー ''Monster Movie''』を自主レーベルからリリース(その後ドイツ・[[ユナイテッド・アーティスツ]]と契約して再リリースする)<ref>このときのバンド名表記は「THE CAN」であった(新旧双方のアルバムジャケットにも記載されている『サイケデリック&エクスペリメンタル』258ページ)。</ref>。2チャンネル録音の[[ローファイ]]的な荒々しい音像で、[[ファンク|ファンキー]]かつ[[サイケデリック・ロック|サイケデリック]]なジャムが[[ミニマル・ミュージック]]的なハンマー・ビートに乗って延々と繰り広げられるという、当時としてはきわめて鮮烈な作品であった。とくに20分の大作「ユー・ドゥー・ライト ''Yoo Doo Right''」はカンの代表曲となり、のちにThe Geraldine Fibbers、Thin White Rope、[[ゴースト (バンド)|馬頭將噐]]らが短縮形でカバーした。「Father Cannot Yell」、「Outside My Door」は[[パンク・ロック]]の先駆けとも評される<ref>『ドイツのロック音楽』52ページ、『Remix』34ページなど。</ref>。マルコムはこの作品でリズミックかつ鬼気迫るヴォーカルを聴かせているが、[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]を病み脱退してしまう。代わりのヴォーカリストとして、ホルガーとヤキがミュンヘンの街角で[[ダモ鈴木]]を発見、その日のうちにダモはカンのライブに登場した<ref>『Remix』26ページ。</ref>。
=== 中期(1971–1973) ===
[[1970年]]、イルミンのコネクションでかねてから製作していた映画音楽作品を集めた『[[サウンドトラックス (アルバム)|サウンドトラックス]] ''Soundtracks''』を発表。マルコムとダモの参加作品が混在するなど、レコード会社の催促によるやや不本意な発表ではあったが、14分30秒の「マザー・スカイ ''Mother Sky''」は、西[[ベルリン]]で[[ディスコ]]・ヒットを記録した。このころからの数年間がカンの(一般的に言われる)全盛期といえる。
[[1971年]]の『[[タゴ・マゴ]] ''Tago Mago''』は一枚物という当初の予定をイルミン夫人のヒルデガルトの発案で変更し<ref>『ドイツのロック音楽』62ページなど。</ref>、一枚目は当時のオーソドックスなロックに歩み寄ったはっきりと起承転結のある楽曲、二枚目はより実験的でプリミティヴなジャム、という対照的なマテリアルを組み合わせた二枚組として発売された。[[現代音楽]]・[[フリー・ジャズ]]・[[民族音楽]]のごった煮という、カンの特徴がよく表れたアルバムとなった。ちなみにアルバムタイトルのTagomagoとは[[スペイン]]・[[バレアレス諸島]]の小島の名前である([[イビサ島]]の東岸に位置する)。
『タゴ・マゴ』発表後、インナー・スペース・スタジオはネルフェニッヒ城館からケルン郊外の映画館跡地に移転する<ref>『ドイツのロック音楽』68ページ、『Remix』30ページ。</ref>。
[[1972年]]に『エーゲ・バミヤージ ''Ege Bamyasi''』を発表。以前よりもポピュラー音楽的に展開のはっきり整えられた楽曲が並び、前衛性と軽やかさが同居したアルバムとなった。収録曲の「スプーン」(サスペンステレビドラマ『ナイフ Das Messer』の主題歌として作られた)のシングルは20万枚を売り、
[[1973年]]のアルバム『フューチャー・デイズ ''Future Days''』は、批評家から高く評価された。ドラムスは軽く細やかなアフリカン・パーカッションを奏で、ダモのボーカルも気だるく、より[[環境音楽]]に接近した。しかし、このアルバムを最後にダモ鈴木が離脱。以降はマルコムの復帰も検討されたが果たせず<ref>『ジャーマン・ロック集成』50ページ。</ref>、ミヒャエルとイルミンが主にボーカルを担当し、時には他のメンバーも担当する形になった。また、これまでのような実験性をやや抑えて、プロフェッショナルに様々なポピュラー音楽をなぞって構築しながら、自身のひねりを加えていく、ウェルメイドなサウンドに転換していく。
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[[1975年]]、[[ヴァージン・レコード]]に移籍する(ドイツの発売権はEMI/ハーヴェスト)。この機会にバンドは16トラックのテープレコーダーを導入<ref>『ドイツのロック音楽』80ページ、『ジャーマン・ロック集成』52ページなど。</ref>。移籍後初作品となる『ランディッド ''Landed''』は遊び心に溢れたアルバムで、似非[[ハードロック]]がコンセプトである。
[[1976年]]の『フロー・モーション ''Flow Motion''』は[[レゲエ]]や[[ディスコ (音楽)|ディスコ]]にも接近した、ダンサブルでポップなリズムに重点を置いた作品。「I Want More」はUKでディスコ・ヒットとなった。
[[1977年]]の『ソー・ディライト ''Saw Delight''』からは、元[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]のロスコ・ゲー(ベーシスト)とリーバップ・クワク・バー(パーカッショニスト)が参加し、よりプロフェッショナルなアフリカ風ミュージックを演奏している。このころから、ホルガーは演奏することよりもラジオなどをステージに持ち込んで操作することに熱中するなどして<ref>『ディスク・セレクション・シリーズ』61ページ。</ref>(偶然性を重視したという)他メンバーとの姿勢と大きく乖離しはじめ、バンド内で孤立しはじめる。
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==注釈==
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==外部リンク==
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