「茶」の版間の差分

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茶がいつ中国から日本に伝わったのかははっきりしていないが、最近の研究によればすでに[[奈良時代]]に伝来していた可能性が強い。ただし、古代に伝わった茶は纏茶(てんちゃ)であったと考えられる{{要出典|date=2013年1月}}。
 
一般的には、[[805年]]に唐より帰国した最澄が茶の種子を持ち帰り、比叡山山麓の坂本に植えたことにはじまるという。また、[[空海]]も茶に親しんだことが、在唐中に求めた典籍を[[嵯峨天皇]]に献じた際の奉納表の中に記されている<ref>河添房江『唐物の文化史 -舶来品からみた日本』32頁</ref>。
[[平安時代]]初期に、[[空海]]([[806年]]に唐から種子を持ち帰り製法を伝えた)や[[最澄]]も持ち帰り栽培したという記録がある{{要出典|date=2013年1月}}。『[[日本後紀]]』には、[[弘仁]]6年([[815年]])4月、[[嵯峨天皇]]の[[近江国|近江]]行幸の際、[[梵釈寺]]([[滋賀県]][[大津市]])の僧[[永忠]]が茶を煎じて献上したと記されている。永忠は在唐35年の後、[[805年]]に帰国しており、この時茶樹の種子あるいは苗を持ち帰ったと見られる<ref>陳 (1992: 94-95)。</ref>。815年6月、畿内、近江、丹波、播磨の諸国に茶を植え、毎年献進することが命じられた<ref>陳 (1992: 95)。</ref>。『[[凌雲集]]』の嵯峨天皇[[御製]]に「詩を吟じては厭わず香茗(こうめい)を搗(つ)くを/興に乗じては偏(ひと)えに宜しく雅弾を聴くべし」との聯があり、搗いて喫していたことが分かる<ref>陳 (1992: 95-96)。</ref>。平安朝の宮廷人も茶を飲んでいたことがいくつかの詩に残っており、[[菅原道真]]も、「煩懣(はんまん)胸腸(きょうちょう)に結び/起ちて飲む茶一椀」と詠んでいる<ref>陳 (1992: 96-97)。</ref>。しかし、[[遣唐使]]が廃止されてからは、唐風のしきたりが衰え、茶もすたれていった<ref>陳 (1992: 97)。</ref>。
 
[[平安時代]]初期に、[[空海]]([[806年]]に唐から種子を持ち帰り製法を伝えた)や[[最澄]]も持ち帰り栽培したという記録がある{{要出典|date=2013年1月}}。『[[日本後紀]]』には、[[弘仁]]6年([[815年]])4月、[[嵯峨天皇]]の[[近江国|近江]]行幸の際、[[梵釈寺]]([[滋賀県]][[大津市]])の僧[[永忠]]が茶を煎じて献上したと記されている。永忠は在唐35年の後、[[805年]]に帰国しており、この時茶樹の種子あるいは苗を持ち帰ったと見られる<ref>陳 (1992: 94-95)。</ref>。815年6月、畿内、近江、丹波、播磨の諸国に茶を植え、毎年献進することが命じられた<ref>陳 (1992: 95)。</ref>。『[[凌雲集]]』の嵯峨天皇[[御製]]に「詩を吟じては厭わず香茗(こうめい)を搗(つ)くを/興に乗じては偏(ひと)えに宜しく雅弾を聴くべし」との聯があり、搗いて喫していたことが分かる<ref>陳 (1992: 95-96)。</ref>。平安朝の宮廷人も茶を飲んでいたことがいくつかの詩に残っており、[[菅原道真]]も、「煩懣(はんまん)胸腸(きょうちょう)に結び/起ちて飲む茶一椀」と詠んでいる<ref>陳 (1992: 96-97)。</ref>。しかし、[[遣唐使]]が廃止されてからは、唐風のしきたりが衰え、茶もすたれていった<ref>陳 (1992: 97)。</ref>。
 
茶の再興は、'''[[栄西]]'''が[[1191年]]に[[宋 (王朝)|宋]]([[南宋]])から種子や苗木を持ち帰ってからである。栄西は、1187年から5年間の2回目の渡宋中、素朴を尊ぶ禅寺での抹茶の飲み方を会得して帰ったと考えられる<ref>陳 (1992: 97-99)。</ref>。当初は薬としての用法が主であった(戦場で、現在の何倍も濃い濃度の[[抹茶]]を飲んで眠気を覚ましていた、等)が、栽培が普及すると共に[[嗜好品]]として、再び飲まれるようになった。
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